第1部
難民と日本社会
バングラデシュから来日したロヒンギャとして
ミャンマーの少数民族ロヒンギャの医師だった父と家族が避難したバングラディシュで誕生。2006年の大晦日に来日。日本語を学び、難民高等教育プログラム(RHEP)により、本学総合文化政策学部に進学、2013年に卒業。卒業論文は日本の難民問題について執筆。現在、UNIQLOに勤務。
皆さんこんにちは。私はロヒンギャという、ミャンマー西部のラカイン地域で1000年以上の歴史を持つイスラム系少数民族です。ロヒンギャ人は、自らの文化と言語を持っていて、とても豊かな生活をしていましたが、20世紀初頭以降、とくにミャンマーの軍事政権時代以降、宗教や肌の色、言語の違いなどによって差別が始まり、国民としての権利を奪われてしまいました。国籍の剥奪、地域間の移動の禁止や教育・医療面での差別、また高い税金を支払わなければならず、さらには罪のない人々が理由もなく殺されたり、住んでいる家に放火されたりなどの迫害が深刻化していきました。ロヒンギャの人々は、そうした迫害から逃れるため、国境を越えて隣のバングラデシュやインドネシア、タイへと向かったのです。
我が家の場合は、まず父が出国しました。父はヤンゴン国立大学で医学を勉強し医師をしていましたが、迫害や仕事場での差別に反対するデモを行ったために軍事政権に目をつけられ、妊娠中の妻と子供3人を残し、一人でバングラデシュに逃れたのです。その後、妻子を呼び寄せ、私は6番目の子供としてバングラデシュで生まれました。
両親は子供たちに良い教育を受けさせたいと、難民申請はせず、バングラデシュの住民になりすましていました。政権が変わり、ロヒンギャ人をミャンマーに送還する運動が始まりました。ロヒンギャだとばれると帰国されられるのです。それはすなわち死を意味します。私も父のように医学を学びたかったのですが、家族のいろいろな書類を提出しなければならないことから、ばれて一家がたいへんな目に遭ってはいけないと大学入学は諦めました。
ちょうどそのころに夫と出会ったのです。彼は私の母方の遠い親戚にあたるミャンマー人で、やはりミャンマー政府に逮捕されたり、拷問されたりして、命からがら韓国に行き、韓国から船で日本まで逃れて難民申請をし、2年半くらい待ってようやく難民認定を得たところでした。彼の両親もバングラデシュに逃れていて、二人を迎えに2006年にバングラデシュにやってきたときに私と出会い、結婚することになったのです。
私の事情を伝えたところ、日本に行けば、私も夢に向かって勉強ができるからいいんじゃないかなと言ってくれて、2006年の12月30日に来日しました。バングラデシュは暑い国なので薄着をしていたら、空港から出た瞬間、寒くてまるで冷蔵庫の中だと思ったことが今も忘れられません。そんな感じで、大きな希望を持って彼のもとへ、日本へとやってきた次第です。
ご主人と知り合って日本に来られて、一から日本語を勉強して青山学院大学に入ったわけですね。大学では、各国の難民政策を比較したうえで日本の難民政策を論じた卒論をまとめられました。日本の難民政策のどこが問題か、率直にお話しいただけますか?
私は10人きょうだいですが、バングラデシュに残っているのは一人だけで、アメリカ、カナダ、イギリス、オーストラリア、マレーシア、日本と、世界各国に散らばっています。それぞれがより豊かな生活、夢を実現できるところを求めて出国したのですが、どこにたどり着いたかは運ですね。私は日本にたどり着いたのですが、正直、思い描いていた通りではありませんでした。物価は高いし、学費もかかります。さらにアイデンティティ・クライシスにも直面しました。ミャンマー人でもないし、バングラデシュ人でもないし、「難民」とも言いたくなかった。
そもそも日本語の「難民」にはポジティブなイメージがまったくなく、「難民」と聞くだけで相手の顔色が変わるほどでしたから、まず、自分のアイデンティティを自分で作らなければなりませんでした。幸い、国連の難民高等教育プログラム(RHEP)の支援を受けて、青山学院大学に入ることができました。
アメリカやオーストラリアにいるきょうだいは難民申請をするとすぐ認定されて、国籍も得て日本よりも自由を謳歌しています。そういう国と比べると、日本はたしかに遅れていて、遅れているというより日本社会に難民が馴染んでいない、日本社会が難民をまだ受け入れたくない存在としているんですね。でも、難民を同じ夢や希望を持った人間として教育や就労面のサポートをすれば、私たちの可能性が十分発揮できて、少子高齢化の問題などさまざまな課題に対しても貢献できると思います。日本人一人ひとりが、なぜ難民が来ているのかを知り、難民を人間として見てほしいです。