イベント EVENTS REPORTS 総文創設10周年記念 クロージングシンポジウム|2019年3月2日 総文のアイデンティティと「これからの10年」

総文創設10周年記念 クロージングシンポジウム|2019年3月2日

総文のアイデンティティと「これからの10年」

チラシ

第2部:パネルディスカッション

「これからの10年」に向けて

モデレーター:小林康夫、パネリスト:竹内孝宏、イヴォナ・メルクレイン、中野昌宏 (企画責任者)
型と名人芸
小林

第2部後半のパネルディスカッションは、総文のこれからの10年を背負って立つ3人の先生をお迎えします。第1部を受けて、総文にとって型とは何かから入りましょうか。竹内先生、いかがですか。

小林 康夫

小林 康夫Yasuo Kobayashi

東京大学総合文化研究科教授を経て2015年より総文・特任教授。1950年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科、パリ第X大学ナンテール(テクスト記号学科)卒。専門は、現代哲学/表象文化論/芸術論。著書に『表象文化論講義 絵画の冒険』(東京大学出版会)、『オペラ戦後文化論1 肉体の暗き運命1945-1970』(未来社)、『君自身の哲学へ』(大和書房)、『こころのアポリア』(羽鳥書店)など。

竹内

私自身、型は全然持っておらず、普段使っている言葉で言うと無免許運転でやってきた感じですね。よく言えば名人芸でやってきた。ただ型が有効な場合とそうでない場合があって、型が有効なのは比較的時代が安定しているときでしょう。ところが我々は今、危機の時代を生きている。そういうときは、型ではなくてむしろみんなで名人芸を続けて乗り切っていくしかないのではないかと思います。

竹内 孝宏Takahiro Takeuchi

総文・教授。表象文化論。学と芸が一致する奇跡の瞬間を待望しつつ、数年前から「都市下位文化としての大衆演劇」という命題にほとんど取り憑かれ、残された人生をすべてこれに捧げる決意を固めたところ。本学部には2008年の創設と同時にオープニングスタッフとして着任。

小林

総文の先生方はみな名人である、と?

中野

先ほどバイオリンの例を出しましたが、バイオリンの練習では一定のやり方をまずは叩き込まれるわけです。それができた人が、自分なりに崩していく。ですから、一定の型を習得するだけではなくその先に行かないと、名人芸のレベルになりません。

中野 昌宏Masahiro Nakano

総文・教授。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。京都大学博士(人間・環境学)。社会思想史を起点に哲学、精神分析理論、認知心理学なども研究。近年は日本国憲法の成立過程の研究に集中している。著書『貨幣と精神--生成する構造の謎』(ナカニシヤ出版)ほか。

竹内

うーん、型の蓄積の上に名人芸があるということになると、ちょっと簡単に言えることじゃなくなってきますが……。

小林

メルクレイン先生はどうですか。型とか名人なんて日本的でしょう? ローカルすぎるというご意見などありませんか。

メルクレイン

私は日本の武術の経験もあります。型は体で苦しみながら身につけるという感じですね。

イヴォナ・メルクレインIwona Merklejn

総文・准教授。研究分野:メディアとスポーツ、メディアとジェンダー、日本近現代史。東京オリンピックの歴史(1964年)、女子バレーボールのメディア表象に関する論文公開(Merklejn 2013, 2014)。Handbook of Japanese Mediaで東京オリンピック論を担当(Fabienne Darling-Wolff編, Routledge, 2018)。

小林

なんの武術ですか。

メルクレイン

合気道です。一応初段を持っています。
芸という言葉は英語に非常に訳しにくくて、手っ取り早く「art」と訳したりするんですが、術という意味もあるし、アートの意味も入れば、職人のカーストという意味も入っているじゃないですか。私の頭の中では、職人精神というか、素晴らしい師匠を見て弟子になって、何年間も修業してスキルを身につけてやっと自分で何か表現できるというものですね。
私がワルシャワ大学日本学科の学生だったころ、まったく芸術と関係ない歴史学の先生に「必ず自分の芸を持ちなさい」と言われたことがあります。「自分が関心があって楽しくやっていることで、ずっと一生磨きながら続けられるスキルを持つことは大事です」と。それが強く記憶に残っています。

小林

歴史学は芸である、私が選んだアートであるというわけですね。では大衆演劇を専門としている竹内さんにとって芸とはどういうものですか。これ、私は今、型にはまらない名人芸の司会をしているんですけどね(笑)

竹内

芸について言えば、私は「学芸」の復権が必要だろうと考えています。学とセットになる言葉には、「学問」や「学術」などがありますが、それと「学芸」とを対比させると、さきほどの名人芸の意味が誤解されずに伝わるんじゃないかと思います。
学問は、経済学や社会学、哲学など、それぞれの分野ごとに理論を構築する言語体系があります。どちらかというと文系的で、それに対して学術は理系的です。メルロ=ポンティの『眼と精神』の冒頭に、La science manipule les choses et renonce à les habiter.「科学は物を巧みに操作するが、物に住み着くことは断念する」という言葉があって、今もなぜかそこだけは覚えているんですが、学術はちょうどそのマニピュールという感じ。対象を操作するとかテクニックといったイメージですね。
それに対して学芸は、芸と学とが一体となった言葉で、その学芸を大学のそもそもの存在理由として取り戻すことが、総文で私がやるべきことではないかと考えています。名人芸と申し上げたのはまさにそこなんです。

学芸の復権が必要ではないかと考えています
中野

そもそも芸というのは、ヨーロッパ的なコンテクストで言えば、リベラルアーツですよね。日本では教養=知識のように受け取られていますが、リベラルアーツ、ラテン語ではartes liberalesというのは、まさに人間を自由にするアート、自由の技術であり芸ですね。

竹内

その通りだと思います。ただ総文は教養学部とは違うんだというのは常々言われていることで、より深いレベルでの教養が問われているのだと思います。それが私なりの言い方では、学芸という言葉になる。そして現場を構築するということが存在理由の大きな部分で、教員は常に現場に身を置き、学生に現場を与える。その現場で、最も生き生きと動く人間の能力が芸であって、ただその母体はあくまでも学であってほしいということですね。

小林

ではその学は、どのように現場に還元されるんでしょう。そこに型みたいなものがなければ、そこに戻ってこられないんじゃないか。名人芸にだけ頼っていると、私はできるけど、他の人はできないってことになってしまいませんかね。

竹内

そこは学生の教育ってことからすれば、見ているしかないですよ。自動車教習所の先生のように、ドライバーの脇に座って、危ないとなったらブレーキを踏むみたいな、そういう経験を蓄積していく。

小林

竹内先生を見ていれば、自ずと学生は学ぶであろうと。そういうやり方が必要ということですかね、「人」中心主義ということかな。

中野

徒弟制度というところがどうしてもありますよね。大学もギルドですから。先生のやっていることを後ろで見ていて、まねをする。初めて論文を書くときだったら他の人の書いている論文のまねをしたり、どういうものを調べているかとか、方法論を「盗む」。でも学生さんにこの構えを分かってもらうにはひと工夫がいりますね。
先生の背中を見るだけじゃなくて、先生が見ている先を見てほしいんですよ。我々が面白がってやっているような研究を、「何が面白いんですかそれ」って首を突っ込んできてもらえると、「来たな」ってなりますが……。

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