イベント EVENTS REPORTS10周年記念第2回トークイベント|2018年6月23日 〈世界〉渦となって 総文から世界へ/世界から総文へ

10周年記念第2回トークイベント|2018年6月23日

〈世界〉渦となって 総文から世界へ/世界から総文へ

チラシ

第2部

総文と世界:私が残してきた文化と風景

モデレーター&パネリスト:宮澤淳一
パネリスト:イヴォナ・メルクレイン、ハーブ・フォンデヴィリア、ヴィクトリア・ストイロヴァ (企画責任者)
トークセッション それぞれのランドスケープ
宮澤
ではディスカッションに移りましょう。まずそれぞれの先生のお話をうかがっての感想やご意見をお願いします。
フォンデヴィリア
これほどまでに異なる文化や言語、バックグラウンドを持つみなさんが、さまざまな場所からここに集い、日本で自分自身を見つけ出し、今ここでお互いの話を聞いていることがどれほど興味深いことか! 
メルクレイン先生の大学の美しさ、トルンで城壁を見てまるで自分がお姫さまのように感じたというお話はとても印象深いものでしたし、ストイロヴァ先生のスピーチは詩人のようでもあり作家のようでした。宮澤先生があんなに広いカナダをバスや車で探訪されたことにも驚かされました。
メルクレイン
フォンデヴィリア先生が語った、子供時代の自由と風景の思い出について、独裁者マルコスのモノクロの肖像は先生の記憶の中でとても鮮やかだったろうと思います。ベルリンの壁が崩れたとき、私は18歳だったのですが、壁が鉄のカーテンのようだったことをはっきりと覚えています。私たちが毎日、どこへでも行きたいところに行くことができ、好きなことを研究できるという自由に感謝しつつ、そのことを思い出させてくれたことに感謝します。
またストイロヴァ先生のお話では、国境という特別な風景。それぞれの国や文化、社会、そして政治的な制度の間に引かれる境界線とその歴史的な変遷を改めて思い描くことができました。お二人のお話がアカデミックだったのに、私のはただの思い出話でしたね。
ストイロヴァ
私はこれまでランドスケープについてほとんど考えたことがなかったのですが、今回改めて考えました。日本語ではカタカナのままランドスケープと使われることも多いのですが、風景と翻訳していいのかどうか。例えば同じような言葉として、英語ではsceneryやscene、view、あるいはvistaなどもあります。
ドイツ人の作家のW.E.ゼーバルトが『移民たち』という本の中で、「ヨーロッパのランドスケープを見てうれしさを感じることは絶対できない。なぜならその中に歴史がしみこんでいるからだ」というようなことを述べています。今日みなさんのお話をうかがっていても、それぞれのランドスケープの受け止め方の違いが出ていたという感じを持ちました。とはいえ、本質的なところはお互いどのように理解しあえるかということでしょう。
宮澤先生は、旅をしながらグレン・グールドの記憶を回復するとおっしゃいました。どのようにすれば回復が可能なのか、そこが大切だと思います。
宮澤
ありがとうございます。今話題に出たランドスケープについては、企画した私自身は最初から英語のlandscapeとして考えていました。ですからviewやsceneryではなかったのです。では、landscapeとはいったい何か。何かドラマチックなものを感じさせるし、、立体的でありダイナミックなものを含んでいるイメージを私は抱いていますが、みなさんはどんなふうにイメージしていますか?
フォンデヴィリア
私もlandscapeという言葉は、viewやsceneryとはちょっと違っているように思います。landscapeには景色だけでなく、経験、歴史、文化など、ダイナミックな意味がたくさん含まれています。私にとっては、現在の私の風景は、変化している風景です。世界が急速に変化している今、私たちは皆そのように感じているのではないでしょうか。何が起こるのかわからない世界にあって、私たちは変化の風景の中にいる感じがします。
宮澤
なるほど、変化を含んでいて、歴史だとか、過去のいろいろなものを含んだダイナミックなものといった感覚がlandscapeにはあるんですね。メルクレイン先生はどう思われますか?
メルクレイン
初めて今回のテーマを聞いたときに思ったのは、バックグラウンドとしてのランドスケープです。それを映画的に振り返りながら私の人生が展開するように紹介しようと考えました。もう一つとても大事なのは、私たちが見ているランドスケープが私たちの想像力を育てるということです。だから違う景色を見るために旅に出ることが非常に大切で、宮澤先生のグレン・グールドの旅の話はまさにそうです。
ポーランドでよく言われるのは、ポーランドの風景を見ないとショパンの音楽は理解できないということ。ですから、まずそこのランドスケープを見て、見るだけではなくて周りの音を聴いたり古い写真を調べたりして、当時はどんな感じだったかを思い描いて、アーティストを解釈することが大切だと思いました。
ストイロヴァ
メルクレイン先生は、ランドスケープを、パーソナルヒストリーに近いパーソナルランドスケープとして理解して、その中で場面場面を切り取って、映画的な感じで構成されたということですね。
私のローカル・ランドスケープは実家のブルガスになります。ブルガスの海とか、ブルガスとトルコの境界線にあるストランジャ山脈がそれですが、ナショナル・ランドスケープのブルガリアとなると、私の中ではほとんど存在していないのです。どいうか、日本に来てからあえてナショナル・ランドスケープを捨てるように努めてきた。日本人と同じような感覚で、同じ風景を見ることができるか? そこに近づくために、自分のナショナル・ランドスケープを意図的に置いてきたわけです。ある種の同化ですが、そのために揺れています。
ランドスケープは、ローカルからナショナルまで非常に広い概念なので、ケースバイケースで使い分けているんですね。そしてとくに日本語にする場合。文脈の中でどう訳すかが問題になってくると思います。
宮澤
私はストイロヴァさんの「光景が風景になる」というのが、興味深い発想だと感じました。余談ですが、10年前にマクルーハンの本を上梓したとき、最初に考えていた題名は『マクルーハンの風景』でした。ところが編集者が、光景の方がアグレッシヴな感じがして良いと提案してくれたので、最終的に『マクルーハンの光景』になった。風景という言葉の場合、日本的な柔らかさが出てしまうのですね。
ストイロヴァ
曖昧ですよね。
宮澤
だからランドスケープとは、風景とは違う気がします。小林先生、ひとことコメントをお願いします。
小林

ありがとうございました。みなさんの風景、記憶の中の写真を持って来てくださったわけですが、とくに3人の先生方みなさんは何か微妙なところ、それぞれの人生の大事なところを通っていく感じを持ちました。メルクレイン先生の話では「結婚するから退職します」って言ったときに、ステファンスキ教授が怒ったという場面、あの場所はメルクレイン先生にとってそういう場所だったんだと気づかされた。

フォンデヴィリアさんの話は、フィリピンという国で非常に厳しい幼年時代を過ごし、今筑波を経て総文に来ているんだけれど、何を置いてきたとかはまだ言えない、移動する途中だという感じを持ちました。

ストイロヴァさんの写真は、「ブルガスは私の生まれた土地ですけど、この風景を私がどういう思いで見ているか、あなたたちにはわかりませんよね」とおっしゃっていて、この会はそれを共有するという趣旨なのに、ストイロヴァさんは風景と光景とランドスケープの問題にすり替えて、あの風景を見ているご自身のエモーションはスルーしちゃった。それを教えてくださいよ。

ストイロヴァ
懐かしい……、いや懐かしいという気持ちではないですね。もちろん懐かしさは含まれているんですけれど。ひょっとして日本に戻りたくないということかな……。
小林
海の向こうに行きたいっていう気持ちではないわけ?
ストイロヴァ
私はウィンドサーフィンのチャンピオンで、このあたりの海にはウィンドサーフィンでよく来ていたんですね。だからもう1回ここに戻って、ゆっくりとウィンドサーフィンがしたい、ゆったりとした時間を過ごしたいという気持ちで写真を撮ったんだと思います。
宮澤
学部長の茂先生は、みなさんの発表を聞いてどうお感じになりましたか。

日本にいらして時間が経つと、良い記憶として残っているように見えるし、このように映像で見せていただくと、とてもきれいで、温かいポジティブな感覚を持ちますが、例えばマルコス大統領の悪口は言っちゃいけないとか、そういう不都合で苦しくて悲しいネガティブなものもやはり含んでいますよね? そういう今の自分に抗うようなものをあまり思い出したくない、ということを含んだ上で、風景にはその人自身に迫ってくる力があるのだと感じました。

それともう一つ、第一部の川又先生のときにも疑問に思ったのですが、フォンデヴィリアさんが研究されている日本のポップカルチャーについて、日本人が日本のポップカルチャーを受容しているときと、フィリピンなりヨーロッパのJapan Expoで受容されているときとでは、視点が違っているのではないか。フィリピン、あるいはヨーロッパの価値というフィルターを通して日本のカルチャーを見ていると思うんですね。また世界の人たちは多文化的な観点を大事にしているけれど、日本人がテレビやJポップの歌を聴いたり、日本の文化を見ているときに、多文化的な視点が入っているとはちょっと思えません。

フォンデヴィリア
どこの場所でも変化は起きるものです。日本のアニメを尊敬している多くのアーティストは、アニメを日本のものとして考えることはしません。彼らはアニメのストーリーや美しい絵を見て、それを芸術ととらえて深いレベルで影響を受けているのです。芸術家の中には、それがどこのものか気にしない人もいます。日本からのものだと知っていても、それは芸術であり、コンテンツであり、そしてそれらに触れることができる物語で、それこそが日本のポップカルチャーの変化の非常に重要な側面だと思います。日本の外に出てしまえば、ある意味「日本らしさ」を失い、世界の財産となるでしょう。それがこれまでに私が研究してきたことです。
メルクレイン
私が現代日本文化論で取り上げている問題も、まさにそこです。学生は「これはユニークな日本文化です、おしまい」とやりがちですが、それじゃダメです。特殊な日本文化だがグローバルな文化でもある。グローバルに通じる価値が何なのか? 特殊なところではなく、世界のさまざまな文化とつながり、その文化が他の文化に与えているインパクトを分析すること、かつそれが他の場所でどのようにローカライズされているのかを学ぶことを授業で取り上げています。
ストイロヴァ
私は茂先生と同じ意見です。Jポップカルチャーについて外国人が書いた論文を読むと、何かイラっとしますよね。「いやそうじゃないんだよ」って言いたくなる。もちろん日本人が見ているような視点に近づこうとする私がちょっと特殊なのかもしれません。外国の人は全然違う視点で見ていて、相対化も含んでいるのでそれはそれでかまいませんが、とくに漫画とアニメになると、どうもしっくりこないところがあります。
宮澤
ありがとうございます。ランドスケープという言葉から文化の問題にも話が及びましたので、またこれをこの先の10周年企画でも発展してつなげていければと思いますし、それぞれの授業や議論に還元していただければ幸いです。本日はありがとうございました。

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