イベント EVENTS REPORTS10周年記念第2回トークイベント|2018年6月23日 〈世界〉渦となって 総文から世界へ/世界から総文へ

10周年記念第2回トークイベント|2018年6月23日

〈世界〉渦となって 総文から世界へ/世界から総文へ

チラシ

第2部

総文と世界:私が残してきた文化と風景

モデレーター&パネリスト:宮澤淳一
パネリスト:イヴォナ・メルクレイン、ハーブ・フォンデヴィリア、ヴィクトリア・ストイロヴァ (企画責任者)
宮澤

総合文化政策学部には、諸外国に生まれ育ったり、さまざまな文化を背景とした教員や、諸外国の文化理解に積極的な教員が多くいます。このセッションは、「私が残してきた文化と風景」、英語の副題は "Retrieving the cultural landscape I left behind"です。ポーランド、フィリピン、ブルガリア、カナダのカルチュラル・ランドスケープが、それぞれの私的な語りを通じて重なり合い、総文の想像力を供給する見えざる背景が可視化されるでしょう。

今回私が登壇者の先生方にお願いしたのは、ご自身のランドスケープ――あなたがどこから来て何を置いてきたのか、なぜあなたは今ここにいるのか――について話してほしい。そして、特に秘密ではないけれど、これまであまり話したことのないランドスケープをお示しいただき、この場で共有したいと。まず、お一人ずつに発表いただき、そのあとで、想像力と創造性を高めるために、内発的なディスカッションを行います。

では、イヴォナ・メルクレイン先生からお願いします。

コペルニクスとカラオケ――ポーランド・トルンの風景

このテーマをいただいたとき、非常にうれしかった一方、とても悩みました。というのは、私は転々と引っ越ししており、ノマドと言いますか、地元がどこなのかがよくわからないからです。そこで、ポーランドの広い平野の風景ではなく、日本に来る直前に住んでいた、トルンという街に焦点をあててお話します。

Merklejn, Iwona

イヴォナ・メルクレインIwona Merklejn

青山学院大学総合文化政策学部准教授。研究分野:メディアとスポーツ、メディアとジェンダー、日本近現代史。東京オリンピックの歴史(1964年)、女子バレーボールのメディア表象に関する論文公開(Merklejn 2013, 2014)。Handbook of Japanese Mediaで東京オリンピック論を担当(Fabienne Darling - Wolff編, Routledge, 2018)。2015年より現職。

トルンはワルシャワから250kmぐらい離れた、ポーランドの中北部に位置する人口約20万人の中規模の都市です。中世の街並みが残る旧市街が世界遺産になっており、天文学者のニコラウス・コペルニクスが生まれた街としても有名です。

そのトルンにあるコペルニクス大学に、2008年に日本学科が開設されました。総文と同様、2018年で10周年です。前身は1970年代にスタートした日本言語文化研究室でした。もともと日本に留学していた物理学者たちが、研究のかたわら趣味として日本語や日本文化を習っていたのを、帰国後、インフォーマルなネットワークとして日本語講座を開いたのが始まりです。上司のステファンスキ先生も物理学の教授で、漢字を習得し、日本の戦国時代について教えていました。
私はワルシャワ大学の日本語学科で非常勤講師をしていましたが、コペルニクス大学に就職が決まったのでトルンの旧市街に部屋を買いました。窓から城壁が見えてお姫様になった気分でいたのですが、世界遺産で中世の都市ですから、引越しトラックが旧市街の城門から中に入れないのです。門の前で家具をおして運んでもらうしかありませんでした。

トルン旧市街の門

当時の職場がこの建物です。ネオゴシック式の立派な建物ですが、戦前は刑務所で、冬には雪が積もり暖房がきかず寒くてたいへんでした。

コペルニクス大学日本学科の建物と冬のキャンパス コペルニクス大学日本学科の建物と冬のキャンパス

コペルニクス大学日本学科の建物と冬のキャンパス

日本学科が開設された当時、教員は物理学教授のステファンスキ先生と私、ネイティブスピーカーである中山称子(しょうこ)先生の3人で、第1期生は15人と、非常にアットホームな雰囲気でした。教員はデスクさえ持っておらず、鍵がついた引き出しがひとつずつあてがわれていて、教室でもあり図書室でもあり研究室でもあった多目的ルームで過ごしていました。

コペルニクス大学の日本学科がオープンできたのは、日本政府の援助もあったのですが、シャープという企業の存在もとても大きかったのです。2007年8月にシャープがトルン市郊外に欧州向けの液晶テレビの工場を稼働させていて、日本語を勉強していた人たちはそこでの通訳の仕事があったし、現地法人の社長さんは、テレビを寄付してくださいました。多目的ルームが手狭だったので、「テレビやパソコンを置く部屋が必要だ」と、学部長先生に懸命に交渉したこともいい思い出ですね。現在は日本学科は、新しいキャンパスに移り、150人の学生と、スタッフ15人、うち日本講師が4人の陣容です。

私がいた当時はこんな感じでした、中央がステファンスキ教授で、日本刀を振りながら戦国時代を教えるというユニークなスタイルでした。上司としては穏やかでとても仲が良かったのですが、2011年に「ごめんなさい、結婚退職します」と申し上げたら、怒って2週間も連絡をくださいませんでした。ここに写っている学生たちは、私が教えた学生もまじっています。風景ではありませんが、懐かしい写真です。

ステファンスキ先生を囲んで

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