イベント EVENTS REPORTS 総文創設10周年記念 クロージングシンポジウム|2019年3月2日 総文のアイデンティティと「これからの10年」

総文創設10周年記念 クロージングシンポジウム|2019年3月2日

総文のアイデンティティと「これからの10年」

チラシ

総文の行方

茂 牧人
超越(第三者)の審級

さて、私自身、このような公共性ということを考えるときに、もう一つ考えておきたいことがあります。それは、カントやアーレントがいう公共性や複数性ということは、大事なことなのですが、その公共性や複数性が成立するときに、この人間の次元を超えた「超越の審級」が必要となってくるということと、その「超越(第三者)の審級」には、公共性や複数性から排除された者の犠牲が伴うということなのです。これは、大澤真幸氏の『<自由>の条件』や『自由という牢獄』という著作からヒントをえています。

先ほども言いましたように、今現在世界は、世界を、また人間自身を見える化する方向へと進んでいます。つまり、すべてが数値化されて、平準化されていきます。普遍性を問うのですが、そこには、人間の世界を超越した次元は考えられていません。今大学は、学生にポートフォリオを作成させる方向へ進んでいます。成長の記録をつけさえて、自分の能力や状況を見える化、可視化するというのです。私は、そのような方向が、何か「人間とは何か」ということを考えるときに、足りない部分があるように思います。
それは例えば、キルケゴールが、実存の段階を美的段階、倫理的段階、宗教的段階に分けたときに、倫理的段階は、主体性が普遍性の次元と関わるが、つまり、「殺してはいけない」という倫理の法則は、すべての人に言える普遍性を主張できる段階ですが、それとは、異なって宗教的段階として、個別者が絶対性と関わる段階があるということを主張していることを取り上げたいと思います。そこには、信仰や希望や愛という人間の次元が関わってきます。そのような目に見えない次元が、人間を超えた次元として人間に関わってくるときに開かれてくる次元があるように思えます。たとえば、アブラハムは、神からその一人子イサクを犠性に奉げよと命令されるのです。絶対者とアブラハムとの関係は、秘密となり、信仰のみをもとにして成り立つ関係でした。そのような次元が、現代の資本主義の社会の中では捨象されてしまっているのではないでしょうか。総合文化政策学部では、そのような次元を、祭りにおける目に見えない世界へと境界線を越える働きや、渋谷の街の中に底が抜けている次元があることを見抜くときに、扱えるのではないかと思っています。そのような第三者の審級という超越的な次元との関わりの中で、公共性や複数性ということが切り開かれてくるときに、本物の公共性や複数性が可能となるのではないかとも思うのです。

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