さて、今近代の枠組み自身が壊れてきて、別の世界へと進もうとしています。いったいどのような世界へ進もうとしているのでしょうか。この学部は、近代の枠組みを超えて、どこへと進んでいくべきでしょうか。それを少し考えておきたいと思っています。
一つ思想の世界で言えることは、近代が主観性を確立した時代であったということです。デカルト以降、それは、自己意識という仕方で表現されています。自己が意識していることを意識しているという在り方を取り出していました。そこから自己の同一性や、自己の確立ということがさかんに言われていました。また、その主観性が、数量や因果性をもとに世界を分節化して、自分自身である人間をも捉えようとしたことにあると思います。
しかし、20世紀後半から、主観性や自己の確立ということよりも、国家や民族を超えた人々が、また、立場の異なる人々が、どのように公共的な空間を作りうるかという問題に移っていったと思われます。今立場の異なる人々が、いかにして普遍的な立場に立ちうるかということが問題だと言われています。この21世紀の時代、主観性という近代の枠組みを超えて、公共性ということが大事な時代となっています。
もう1年前のことになりますが、昨年のこのトーク・イベントの最初に、杉浦勢之先生がお話になりました。そのとき、カントの「理性の公共的使用」ということを仰っておられました。カントの理性というのは、普遍性を求める理性です。そこに他者の問題がどのようにあるのかということは、いつも問題でした。しかしカントも、『人間学遺稿』の中で、他者の立場から自分自身を眺める「もう一つの眼」」をもつことの大切さを説いていました。その「もう一つの眼」こそが、「人間理性の眼」でもあります。そこでは、他者を眺めることによって、普遍的な次元へ至るのです。
この「理性の公共的使用」ということは、別の表現で言えば、アーレントが、カントの『判断力批判』のなかにでてくる「共通感覚」に複数性の政治の可能性を読みこんだことと類比的です。『判断力批判』というと美学の歴史の中で中心に置かれている著作です。カントは、美というのは、まったく主観的な趣味判断ですが、そこにある種の普遍性が潜んでいることを主張します。「富士山が美しい山だ」というのは、個人的な、主観的な判断ですが、多くの人が、やはり「富士山は美しい山だ」と思っていますし、新幹線の中から富士山が見えたら、隣の人に「富士山が見えてる。きれいだね」と言いたくなりますよね。個人の勝手な趣味判断が、そのような主観的普遍性を主張できるのは、私たち人間が、共通感覚(sensus communis)をもっているからだと言っています。
アーレントは、その共通感覚のなかに、「あらゆる他者」の意見を考えの中に入れること、「他者の見地へと身を置き移すこと」を読み取っていきます。そして、彼女は、政治に取って複数性を大事にするという視点をこのカントの共通感覚から取り出すのです。杉浦先生は、ACL研究所なり、ひいてはこの総合文化政策学部の全体が、いろいろな立場の人たちが集まり、わいわいやって、お互いの立場を認めていくことを期待して、このような「理性の公共的使用」や「共通感覚」ということを仰っていたと記憶しています。