イベント EVENTS REPORTS 総文創設10周年記念 クロージングシンポジウム|2019年3月2日 総文のアイデンティティと「これからの10年」

総文創設10周年記念 クロージングシンポジウム|2019年3月2日

総文のアイデンティティと「これからの10年」

チラシ

第1部

総文のアイデンティティをめぐって

司会:中野昌宏、パネリスト:杉浦勢之、間宮陽介、梅津順一 (企画責任者)
教養という偽善のすすめ
間宮

問題解決という場合に、我々はどこかに問題が落ちてないかな、と思って問題を探して、これを解決するにはなんとか学が必要だと引っ張ってくる。卒論を書くときにテーマがどこかに落っこちてないかなとか、探すんですよね。それで「これがいいや」と思って選んで、いろんな文献を揃えます。それは、そのときそのときの対処にすぎません。
でも例えばプラトンを大学に入って読むとする。まあプラトンは分かりやすいですから、「たいしたことないなあ」と思ってそのまま過ごすんですけれども。10年、20年、30年経って、別の方向からあることを考えていたときに、「ひょっとしてプラトンはこういうことを考えたんじゃないか」とふと思ってもう一回読むと、ピタッと焦点が一致する。そのとき初めて「なるほど、そういうことだったのか」と気づく。心理学でいう「アハ体験」ですね。だから本というのは二度読まなきゃ駄目です。一回は教養として。二回目は自分がこれは本当に大事だと考えた問題に対して、改めて目を開かせてくれる経験として。
つまり、学問は大学4年間で「はい、終わり」というものではなく、10年、20年、30年、死ぬまでかかって何かを考えることです。総文の4年間も、将来世界に出て、何かの問題にぶち当たったときに、「あ、そういうことだったのか」と思い至る、そのための力や経験を、どのような形で与えられるかが重要ではないでしょうか。

中野

自分の中に残っていく何か、教養とでもいのでしょうか、そういったものを残していく。そのときにはありがたみが分からないんですよね。卒業生など、4~5年してから「もうちょっと先生の授業をちゃんと聞いておくんだった」とか言ってきますね、必ず。じわじわ来るんですね。タイムラグが必要なのかもしれません。

間宮

丸山眞男が『偽善のすすめ』というエッセイの中で「偽善者たれ」と言っていますね。偽善というのは善の意識があるから勿体をつけたり、背伸びしたりするわけで、それに対して偽悪には善の意識がない。例えば偽悪は数学ができないと、「数学なんて役に立たない」「微分・積分なんか必要ない」などと言って引き下げていく。そんなふうに引き下げていくと、何も残らないんですよね、背を屈めちゃうと。その点、偽善は、「自分は能力がないが、プラトンを取ってみよう」などと背伸びをする。それが将来、生きてくる。今、教養とか教養主義って評判が悪いけれど、総文の学生はぜひ偽善者になって背伸びをして、カント、ヘーゲル、ガタリとかを堂々と語る、そんな雰囲気が大切だと思います。

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