イベント EVENTS REPORTS 総文創設10周年記念 クロージングシンポジウム|2019年3月2日 総文のアイデンティティと「これからの10年」

総文創設10周年記念 クロージングシンポジウム|2019年3月2日

総文のアイデンティティと「これからの10年」

チラシ

第1部

総文のアイデンティティをめぐって

司会:中野昌宏、パネリスト:杉浦勢之、間宮陽介、梅津順一 (企画責任者)
総文の「型」とは
中野

理論と歴史とでは、その方法論や向き合い方が違うというお話でした。経済学では、数理経済学とか計量経済学とか、数学が重要なツールですが、数学的な思考と社会現象というものの結び合わせについては、間宮先生が師事された宇沢弘文先生がまさにその部分で重要な研究をされたと思います。また杉浦先生が残り物と今おっしゃった文化と、社会的共通資本というものの関係については、どう考えるべきでしょうか。

間宮

宇沢弘文先生は高名な経済学者で、2014年に亡くなりました。20代後半にアメリカに渡り、36歳の若さでシカゴ大学経済学部の教授として世界的な大経済学者になり、40代の初めに帰国されて東大で教鞭をとられ、そこで私は教えを受けたわけです。
帰国した宇沢先生は、水俣病や成田空港の問題などに直面し、経済学に対して疑問を持ち、そこから「社会的共通資本」という概念を提唱します。当時、公害問題が非常に深刻化するのですが、それを経済学的に市場の枠内で解決するなんてことはできない。水や森林、大気など人が生きるうえでも、また産業にとっても重要な環境や、教育、公園、病院といった社会的資本こそ、豊かな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするという考え方ですね。
先生はもともと東大の数学科の卒業ですから、数学は自家薬籠中のもので、研究会などで数学の話になると、魚が水を得たようにホワイトボードに数式をバーッと書くんですが、自身としては数学は手放す方向に行きました。
経済学には基本的な型があるんです。分かりやすい例を挙げれば、需要供給曲線とかありますよね。経済学では数式がどう決まるかという型を学ぶ必要がある。さきほど学生のころにストライキが続いた話をしましたが、勉強する時間がたっぷりあったのに、それをしっかり学ぶことをしないで、早いうちに型を破っていったんです。むしろ型がないと言ったほうが合っているかもしれません。型を破ったら自由にはなれますが、さてそれで良かったかなとも思うわけです。やはり学問をやるからには、型をしっかり持っていないと型破りもできない。
総文についても、その型の問題が出てくるのではないでしょうか。総文の型とは何か。総合文化政策学部概論といったテキストがあれば型を覚えられますが、そんなものはありません。では行き当たりばったり、何をやってもいいかというと、型がないと長続きしないんです。スポーツでもなんでも、フォームを固めないと長続きしない。ですから、どうやって型を身につけるか、そもそも総文の型とは何かということが、今後非常に大切になってくるのではと思っています。

総文の型とは何かということが、今後非常に大切になってくる
中野

大塚史学の型を習得された梅津先生は、この点どうお考えですか。

杉浦

今回このシンポジウムのために、同年代にできた総合型の学部、あるいは文理融合型の学部にどういう特徴があるかをちょっと調べてみたんですね。
慶應義塾の藤沢キャンパスは一つのモデルを作ったと思うのですが、総合政策学部は文というか政治ですし、環境情報学部は理で、いずれも問題発見・解決型教育を掲げてはいますが、例えばどういう問題に取り組むかとなると。環境ということで一方では地球環境や宇宙があり、他方では細胞とか遺伝子が出てくる。それで学部の統一性があるのか、よその学部なのに心配だなという感じがしました。
そういう点で言うと、同志社大学の文化情報学部は、文化のさまざまなコンテンツをデータサイエンスの手法で分析する、という説明があって、非常に分かりやすい、新しいタイプの学問のように思えました。また、問題解決という意味では、1998年に開設された立教大学の観光学部は、観光産業の問題と、文化交流の問題と、地域観光的な観点から見た地域形成をテーマとしてこれも非常に分かりやすい。
では、我が総合文化政策学部はどう見えるのか? 専門分野科目群としては、メディア文化、都市・国際文化、アートデザイン文化というふうに、かなり幅広いですね。世帯が小さい中で非常に幅広いという難しい問題を抱えていますが、総文の特徴となるのは、ラボ・アトリエ実習だと考えています。体験型学習、つまり学生に文化創造の現場を経験させて何かを掴ませるというアプローチで、学生もすごく喜んでやっていますよね。
創造の現場で汗を流すと、職人的な仕事が残るのではないかと思います。いまAIの問題が取り沙汰されていますが、AIと人間が一番違うところは、AIは汗をかかないけれど、人間は汗をかくというところでしょう。そこが重要な意味を持っているのではという気がします。

中野

今のお話をうかがっていて、問題解決型の取り組み方について、間宮先生のお話を受けると、型からというか、経済学なら経済学の型を習得して何かを解決する方法と、もう一つ、何を解決しなきゃいけないかということが先にあって、それに向けて試行錯誤するという方法、この二つがあるのではないかということを考えました。
総合文化政策学部の型については、総合文化政策学入門という授業があるから型はある、と強弁できないことはないですが、やはり型はないですよね。各先生方の持っているスキルなり、やり方、流派がそれぞれあって、経済学なら経済学、社会学なら社会学。そういう切り口でやっているわけです。
ただ、ラボ・アトリエ実習というのは現場での問題解決ですから、旧来のやり方とは違い新しいんじゃないかということですが、どうでしょうか。間宮先生からご覧になっていかがでしょう。

型を習得して問題解決する方法と、解決すべき問題があって試行錯誤する方法がありそうです
間宮

問題解決型と言っても、実用的な問題もあれば、さまざまな種類の問題がありますよね。出世するためには上司におべんちゃらを言うとかイエスマンになるとかいろいろ方法があって、出世の早道かもしれないけど、人生の問題が解決したとは言えない。
今の教育の元締め官庁に言わせれば、問題というのは実用的な問題に偏っていて、実用的な問題を解決するための学生を育てている。ですから国語も文学、とりわけ枕草子や源氏物語なんてもう要らない。漢文なんかもっと要らない。自動車教習所のパンフレットを読めるような能力をつければそれで十分なんだという方向性です。
そんななかで、古文、漢文がなぜ必要なのか。総文の場合で言うと、問題解決型のカリキュラムだけではなく、大塚史学もあれば、日本経済史もあれば、哲学もあれば、いろいろな学びがある。それが問題解決に対してなぜ必要なのかということを、きちんと考えていかなければいけません。

杉浦

例えば、経済学では明快な問題設定があれば、それに対して最も洗練されたモデリングをして、その答えを出し政策につなげる。例えば、厚生経済学などは非常に整理されていますよね。ただそれは経済学という人間や社会の切り方を受け入れるという社会的合意の中で成立しているわけで、それがすべてではありません。
先ほど、残り物と申し上げましたが、「残り物」というのは決して捨てられたということではなく、従来の学問では手がつけられないから残っている。しかしそれこそがこのグローバライゼーションの中で一番大切なものであった可能性があるわけです。宇沢先生や間宮先生の「社会的共通資本論」もそこから出てきたと思っています。そう考えると、問題の発見と解決というけれど、そもそも何が問題かという価値提示ができているのかどうかが重要になってきます。生きるに値するためにどう生きるか。まずそういう価値を問う設問があらねばならず、それこそが大切なのですが、ややもするとそうした話はなおざりにされがちです。

中野

総文では哲学を重視していますね。私は、哲学というのは問題解決に必要だと思っています。私も経済学部出身ですが、哲学がないと経済学はできない。良い暮らしとはどういうものかを考えることが根底になければならないはずです。その際、我流で考えるとうまくいかないので、2000年も昔から考えている先人の書き残したものを参考にして考えるほうが効率的です。
つまりそれが型を身につけるということでしょう。昔のプラトンなり、カントなり、彼らが習得したものを自分の生活に応用すればいい。それが問題解決でもあり、型を身につけることでもあると思うんですよ。
歴史学もそうですね。過去にあったものを学ぶ。学ぶことが目的ではなく、現在に生かすためにやっているんだというふうに考えれば、問題解決と言えるなと。

杉浦

ヴァルター・ベンヤミンに、「成し遂げられなかったものだけが未来にとって財産になっていく」というようなことを述べた一節があります。歴史を探るということは、我々の可能性を探るということで、それが現在の桎梏であれば問題解決になりますが、問題解決して終わりというわけにはいきません。これからも変化しないならそれでいいのですが、現状は時事刻々と変わっていく。だからこそ問題は起きているので、そのときに、では何を確かなものとして考えるのか、あるいは何を未来の希望とするか、というところに関しては、理論だけで切っていくと出てこないんですよね。哲学の厳格さ、歴史の構想力が必要になるゆえんだと思います。ですから、問題解決というとき、何が問題で、どの方向に向けて問題を解決していくのかというところをもう一度そういった知性が引き受け直さなければならないのではないか。そしてそれらを含め総合していく新しい知の型が必要になってくるのだと思います。従来の領域の知、あるいは理論と実践とを横断し、新しい価値を生み出す知の「型」ということになるでしょうか。

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