イベント EVENTS REPORTS 総文創設10周年記念 クロージングシンポジウム|2019年3月2日 総文のアイデンティティと「これからの10年」

総文創設10周年記念 クロージングシンポジウム|2019年3月2日

総文のアイデンティティと「これからの10年」

チラシ

第1部

総文のアイデンティティをめぐって

司会:中野昌宏、パネリスト:杉浦勢之、間宮陽介、梅津順一 (企画責任者)
青学の学部創設と総文
中野

総合文化政策学部はいろいろなジャンルの先生方が集まっている、多彩な学部です。それがどのように一つのアイデンティティを掲げていけるのか? 総文10周年のクロージングにあたり、本日はこのテーマを掘り下げていきます。

中野 昌宏Masahiro Nakano

総文・教授。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。京都大学博士(人間・環境学)。社会思想史を起点に哲学、精神分析理論、認知心理学なども研究。近年は日本国憲法の成立過程の研究に集中している。著書『貨幣と精神――生成する構造の謎』(ナカニシヤ出版)ほか。

今日ここにお集まりいただいた3人の先生方は、経済や歴史、さらにはもっと大きく言うと文化というキーワードで研究をなさってこられました。まずはそれぞれの学問分野と総文の関係を中心にうかがっていこうと思います。
では、第14代青山学院院長を務められた梅津先生からお願いいたします。

梅津

「総文のアイデンティティ」とは何かについてはこのあとの議論で出てくると思いますので、最初に青山学院の歴史における総文の位置付けをお話ししましょう。

梅津 順一Junichi Umetsu

青山学院前院長。総文・教授。国際基督教大学教養学部卒。東京大学大学院経済学研究科博士課程任期満了退学。東京大学より、経済学博士号取得。著作:『近大経済人の宗教的根源』(みすず書房)ほか。

若い方はあまりご存知ないかもしれませんが、青山学院大学は1949年に新制大学として開設された大学です。当初は文学部と商学部の2学部からスタート、その後、1953年に商学部が経済学部になりました。この文学部と経済学部の定員がそれぞれ200から300で、1学年500人、4学年で2000人弱の大学でした。それが日本の高度成長に合わせて、1959年に法学部、1965年に理工学部、1966年に経営学部が創設され5学部になりました。
この1966年というのは、私が生まれた年、つまり団塊の世代が大学に押し寄せた時期です。最近は出生数が100万人を割ってしまいましたが、戦後のベビーブームでは1年にざっと270万人の赤ちゃんが生まれ、1947‐49年と3年間続きました。日本の私立大学は、この18歳人口の急増に合わせて、学部を増設して総合大学となっていったわけです。
そのころの青山学院大学は、定員が1学年で2000人強、当時は少し多めに採っていましたからキャンパスに約1万人の学生がいました。あのころ「マンモス大学」という言葉があって、青山学院もその一員になったのです。
その後、1980年ごろから再び学部の設置が活発になってきます。経済大国化に伴って国際関係が重要になってきたことを背景に、1982年に国際政治経済学部が新設されました。
さらに、第二次ベビーブームと大学進学率の向上によって、1990年前後より各大学で学部の創設が続きます。今度は、文理融合型や総合型を志向する新しいタイプの学部が登場しました。その先駆けが、1988年に開設された慶應義塾大学の藤沢キャンパスでしょう。総合政策学部と環境情報学部が非常に注目されました。
学問は発展するとどんどん細分化する宿命にあります。しかし、一つの大きな問題に取り組むには、総合しなくてはいけない。そういう流れの上に、2008年、総合文化政策学部と社会情報学部が青山学院大学に誕生したのです。

新しいタイプの総合化への流れの中で、総文が創設されたのです
中野

なるほど、マックス・ウェーバーですね。細分化したものをもう一度、統合していくという流れが、総合文化政策学部のベースにあるとまとめていただきました。
次の間宮先生は京都大学大学院人間・環境学研究科に長く在籍しておられました。そこも学際研究科ですね。

間宮

私が京大の人間・環境学研究科に赴任したのが1993年で、第1回目の院生が中野さんでした。総合文化政策学部に来たのは2015年4月で、4年経ったところで定年を迎えたのです。

間宮 陽介Yousuke Mamiya

総文・特任教授。専攻は社会経済学。現在は公共空間論を主たる研究領域に定めている。研究上のモットーは「あらゆることについて何事かを知り、何事かについてあらゆることを知る」。著書『モラル・サイエンスとしての経済学』『ケインズとハイエク』『法人企業と現代資本主義』『丸山眞男を読む』『市場社会の思想史』など。

私の専門は経済学ですが、学部時代や大学院に進んだころは学生運動の嵐が吹き荒れていて、ストライキが続いていました。大学院の入試も、筆記試験こそ学内でしたが、面接は千葉県にある東大の検見川総合運動場の学生宿舎で行われました。経済学批判も沸き起こっていた時代でしたから、最初のうちは狭い意味の経済学をやっていた私も、いろいろな方向へ手を出して今日に至っています。行き当たりばったりの研究者人生ですが、中心になるものはいくつかあって、そのうちの一つが「社会的共通資本」です。そのほか、都市論や公共空間論なども扱っています。

中野

次の杉浦先生は総文のファウンダーのお一人です。

杉浦

総文のプレヒストリーについてはオープニングのときにお話しましたので、私の研究と総文とがどのようにつながるかを簡単にご紹介しましょう。

杉浦 勢之

杉浦 勢之Seishi Sugiura

青山学院大学経済学部卒業、名古屋大学大学院経済学研究科博士課程任期修了退学。青山学院大学経済学部教授を経て、総合文化政策学部設立と同時に移籍。青山学院大学副学長、総合文化政策学部長を歴任。ACL所長。日本経済史(共同体論・現代財政金融史)を専門とするが、現在はICTを通じた人類史の変革の研究に転進中。共著書『人企業システムの戦後史』(東京大学出版会)、『金融危機と革新』(日本経済評論社)、『東京証券取引所50年史』(東京証券取引所)、『青山文化研究』(宣伝会議)ほか。

私の専門は近現代日本経済史です。経済学というのは表には出てきませんが、欧米文明、さらにさかのぼればギリシャ文明やキリスト教文明を踏まえた極めて精緻な学問体系があり、理論があります。ところがその中で経済史は、社会科学と人文科学を横断する学で、数式でパッと理論を打ち出していくというわけにはいかず、方法論が真っ二つに分かれる中で葛藤しながら答えを出していかなければならない。
過去の歴史を実証的に記述すればいいという話ではなく、今の自分にどう帰着するのかを常に問い直しながら答えを探し、かつそれは自分たちで終わらない、そのことを考え続けていかなければならない学問です。しかも日本が対象といっても、では日本はいつから日本なのか。そもそも市場経済は日本一国の枠では収まりません。世界全体の中で影響を受けているわけです。その日本経済史のしかも近現代が専門ですから、「なぜ我々は存在し得て、今ここにあるか」「今ここにある我々の状態をどのように未来につなげていくか」ということを常に問うています。それを経済学のかなりリジッドなロジックとぶつけつつ、対話させていくことになります。
ですから、経済史は文字通り学際分野に成立してきたわけですが、学際の「際」の部分はきわめてフリクションが強い。知性と知性がぶつかり合って戦い合う中で総合され出来上がってきた専門分野といえます。そこで総合文化政策の「文化」について考えてみますと、経済学が非常に強い力を発揮し始めたころ、文化というのは市場に必要がないとして、残り物のように扱われてきました。でも経済現象というものも実は文化とつながりがあるわけです。そしてまた、特殊な知性と、非常に特殊な言語を操る近代的知性の一つの頂点である経済学が、21世紀を生きる現実の人々の営みの中で確かな羅針盤となりうるかというのは、非常に経済学でも気になっているところです。むしろ、これまで「残り物」のように扱われてきた文化を起点に歴史を通して経済現象を見ていく、そんな発想の転換ができるのではないかというのが、私が総文にいる理由なのかなと考えています。

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