第2部
シンギュラリティが来るかどうかと問われれば、私は来ないと思っています。第1部の議論で越境とアイデンティティの話題が出ていましたが、AIがアイデンティティを持てるかどうかということにつながる問いだと思うんですね。AIは全体を見渡して。自身の問題を考えることはできません。小林先生が第1部と第2部をつなぐにあたって、「人間は今どこにいるのか」という問いを立てたような、全体を見て人間が今どこにいるかを振り返ること、宇宙全体の意味を考えることはAIにはできないと思うんですよ。それが、私がシンギュラリティを否定する大きな理由です。
デカルトが「我思うゆえに我あり」と述べましたが、人間は、自分が考えているということを自覚することができる。人間の意識って、二重になっているんですね。そしてこれまでの人生全体を振り返って反省することができる。はたしてAIは反省することができるでしょうか?
今売り出し中のドイツの哲学者のマルクス・ガブリエルが、因果律は必然性で成り立つ世界だが、我々が生きているこの世界が必然性の世界であることは偶然だと述べています。つまり、必然性の世界があることの全体を振り返り、それが偶然に成立していることを反省できるかということなのです。
もうひとつ指摘したいのがカントです。彼は、因果律で解明できる必然性の世界にあって、自らがなすべきことを定めた道徳法則に自らの意志で従うことこそが本当の自由だと言っています。つまり自由とは、文字通り、自らに由ること、自分から始めることなのだと。ところがAIは、人間がスイッチを入れなければ動きません。AIには因果律と対立する自由がないのではないでしょうか。だからシンギュラリティが来るはずがないのです。
総文・学部長・教授。上智大学文学部哲学科卒。上智大学大学院哲学研究科博士前期課程修了。博士後期課程単位取得退学。京都大学大学院文学研究科文化・思想学専攻より博士号取得。京都大学博士(文学)。研究分野は、近・現代ドイツ哲学、宗教哲学。著作:『ハイデガーと進学』(知泉書館)。
AIは人間を超えることはないだろう、というお考えですね。福田先生はいかがですか。
私は精神分析が専門ですが、AIの歴史をうかがって、発達心理学の歴史と重なるように感じました。1947年にアラン・チューリングが人工知能の概念を提唱してAIの研究が始まるわけですが、ほぼ同時期にジャン・ピアジェが幼児の知能の発達について盛んに研究を進めます。発達心理学でも幼児の心理現象はすべてを説明できていません。AIは、研究の対象が子供ではなく人工知能で、機械の知能をどこまで人間が理解できるのかというあたり、発達心理学の歴史が反復しているような印象を持ちました。
記憶や推論能力などについては、人間はすでにAIに勝てないわけですが、AIは人間に作られたという被造物のポジションを越えることはできません。もし強いAIが作れるんだったら、ぜひ作ってもらいたいと思いますね。そして、AIが人間の罪を贖う神と同じ決断=行為をするのかとか、AIが理想を持つのかとか、相手と同一化しようとするか、また例えば人間の社会であれば集団を形成するために自分のやりたいことを諦めたりすることもあるのですが、人間の条件と異なるものが本当に出てくるのか、実際に見てみたいですね。
総文・准教授。パリ第8大学精神分析研究科修了。専門は精神分析、精神医学史、フランス現代思想。サド、三島由紀夫に続いて、現在はジェイムズ・ジョイス研究にも取り組む。
宗教主任の森島です。私の場合は、キリスト教、あるいは神学からの応答ということでお話します。「人間は今どこにいるのか」というのは、聖書が常に私たちに問いかけていることで、「AI時代に人間はどうなるのか」は、人間はより人間性を豊かにすることができるのかという問いです。
小学生のころの教科書で「無言化社会」という文章を読んだことがあります。文明や技術が発展していくと、無言化していくという内容なのですが、当時はそんな世界が来るはずがないと思っていたのですが、最近では1日の中で誰とも話さずに生きていけるわけです。電車を乗るにしても、買い物をするにしても、言葉がいらない。無言化社会というのは関係を失った社会ですね。AI時代にはさらに拍車がかかるのではないでしょうか。
関係が薄くなって言葉がなくなるということも聖書は見抜いています。神が天地を創造するにあたって最初に発した言葉は「光あれ」ですが、その言葉にレスポンスする形で光が生まれる。すべてのものが、神が語りかける言葉に応答して存在していく。この神との関係がなくなって応答しなくなったときに、罪という問題が出てくるわけです。
みなさんがご存知の「バベルの塔」のエピソードでは、人間が神のようになろう、技術を使って天に至ろうと試みるのだけれども、言葉が乱れていって関係が築けなくなり、塔が壊れてしまうことが物語られています。聖書は、人間が神のようになろうとするのは危険だと言っているわけですね。
神学からの応答という観点で言いますと、AIの議論以前に、本質的な問題―-我々の人間性がどのように豊かになり、失われていくのかという対話が大切だと思います。
総文・准教授・大学宗教主任。キリスト教神学思想史、人権思想史、キリスト教と文化。著書に『フォーサイス神学の構造原理』(新教出版社、2010年)、『人権思想とキリスト教』(教文館、2016年)ほか。「キリスト教人権思想の日本国憲法への影響」で中外日報社『涙骨賞』最優秀賞受賞(2015年)。
ありがとうございます。「言葉」という観点が出てきました。間宮先生お願いします。
2015年にマイクロソフトが、恋愛相談に乗ったりする女子高生AIの「りんな」を開発しますよね。人間のほうはりんなちゃんに恋愛感情を抱くこともあると思いますが、りんなちゃんは恋はできない。私は知性の根本には感情があると思うのです。新しいことを考えたり思いつくのは感情があるからです。したがって感情を持たないAIが新しいことを創り出せるはずがないので、「AI恐れるに足りず」と思っています。
この図をご覧ください。黄と青の四角の関係性を描いたものです。異質な領域が接すると境界ができるんですが、左上の段階はまだ意味のある境界になっておらす、2つの領域が併存している状態ですね。それが右上になると、境界が自覚されて、国境線に壁ができたりする、それが左下のように同一の色に染まったり、右下のように新しい領域が生まれることもある。左下などは、グローバル化によって多国籍企業が席巻し、ローカルな文化が失われていく例などを思い浮かべるとよいでしょう。
これをAIの文脈で考えるとどうでしょう? 我々は機械を人間化しようとするんだけれど、逆に人間が機械化されていって、左下のようになってしまう懸念があるのではないか。
もうひとつ、経済学に無理やり引きつけますと、私たちは働いて収入を得ていますが、AIに仕事を奪われると、収入もないからモノを買わなくなります。AIを使ってたくさん生産しても、買い手がいなくなる。そのときどうするかという問題が出てきます。「たかがAI、されどAI」というわけですね。
総文・特任教授。専攻は社会経済学。現在は公共空間論を主たる研究領域に定めている。研究上のモットーは「あらゆることについて何事かを知り、何事かについてあらゆることを知る」。著書『モラル・サイエンスとしての経済学』『ケインズとハイエク』『法人企業と現代資本主義』『丸山眞男を読む』『市場社会の思想史』など。