イベント EVENTS REPORTS 10周年記念第1回トークイベント|2018年4月29日 渋谷・青山という都市を語る

10周年記念第1回トークイベント|2018年4月29日

渋谷・青山という都市を語る

チラシ

第1回トークセッション

都市創造のポリティックス:
渋谷・青山 これまでの10年/これからの10年

モデレーター:小林康夫
パネリスト:團紀彦、黒石いずみ、鳥越けい子
コメンテーター:伊藤毅  (企画責任者)
トークセッション

■総文は都市である

小林

さて、トークセッションに移りましょう。ここからはコメンテーターとして伊藤毅先生にも参加いただきます。伊藤先生は2018年4月に総文に赴任されたわけですが、いかがですか?

伊藤

実は私は非常勤で3年ぐらい前から講義は担当していたんですが、こういう場にお呼びがかかるのは初めてです。
まず、総文そのものが「都市」と言えるのではないか。それはすばらしいと思います。大学というのは本来、研究室でできています。研究室は一種の家ですから、大学は独立した家からなる「農村」と見ることができます。60年代後半の学生運動は、そうした大学の封建的な部分を壊したかったんだけど壊せなかったってことでしょう。養老孟司さんがそういうことを言っていますよね。学生運動は都市化へのイニシエーションだったと(養老「都市主義の限界」)。
 ところが総文では、もちろん研究室はあるけれども、それぞれの先生方は全然別の専門で、遠からず、近からず、都市的な振る舞いでお付き合いされながら、全体が成り立っている。そこが素晴らしいと思います。

伊藤 毅

伊藤 毅Takeshi Ito

東京大学大学院工学系研究科教授を経て、2018年より総文・教授。1952年京都生まれ。東京大学大学院工学系研究科修士課程・博士課程修了。専門は都市建築史。現在、都市史をさらに展開させる新たな枠組みとして「領域史」を構想中。著書・編著に、『シリーズ 都市・建築・歴史(全10巻)』(東京大学出版会)、『伝統都市(全4巻)』(同上、日本建築学会賞)、『都市の空間史』(吉川弘文館、建築史学会賞)、『危機と都市-Along the Water』(左右社)など。

小林

うまくまとめてくださいましたね。だけど都市だと意外と隣の人が何をやっているかわからない。他の先生が何に関心を持ってどんな研究をしているかがわからない。今回の10周年企画は、まさに総文で何が行われているのかを共有することも趣旨の一つなんです。
それで3人の先生方の報告を聞いていかがでしたか?

伊藤

最近は多少は女性が増えてきましたが、我々建築の世界は男社会で、男の論理で物事が考えられがちなんですが、本日の発表はジェンダーバランスもいいし、都市へのアプローチの仕方もそれぞれ全然違う。非常に興味深かったですね。
團先生の話の中に、都市という言葉がいつから出てきたのかという問いがありましたが、日本では市制及町村制が交付された1888年(明治21年)、そこで初めて都市という言葉が登場したといわれています。ヨーロッパのCityと同じ意味で使っています。
都市という言葉が面白いのは、都の市と書く。権力の拠点である「都」と、マーケットとしての「市」。この2つが組み合わさっているんです。誰が作ったのかはわかりませんけれど天才的ですよね。

小林

授業になっちゃいますね。さすがコメンテーターですね。

伊藤

ですから本日みなさんのお話をうかがっていて、青学は都市を考える上で最高の立地と潜在力を持った大学だと思いました。ただ都市の考え方がちょっとオールドファッションではないか。
都市という概念はヨーロッパで成立した概念で、それを日本に入れてきたこともあって、どうしても、都市と農村という枠組みで考えてしまう。でもそういう時代はそろそろ変わりつつあるんじゃないかという予感を持っています。これは2011年の東日本大震災を経験したからですね。
みなさんも、あの震災の時にいろいろお考えになったと思います。それまで私たちが当たり前に思っていた土地が簡単に沼に戻り、建築やそれを支えていたインフラが一挙になくなってしまった。あの時に、これは従来の都市とか建築という概念だけではちょっとまずいんじゃないかということを痛感しました。
実は震災のちょっと前ぐらいから、私はオランダのことを調べていたんです。オランダというのは要するに海面下にもかかわらず、堤防と水路で大地を作っちゃった国ですね。そこでどのような都市を作っているんだろうかと。そのころには私は「都市はいつか沼に戻るかもしれない」と思っていたので、沼地を巡り歩いて沼地の都市史を構想していたんですが、そうしたら本当に黙示録的に震災がやってきて、地面がなくなって、建築が流されてしまった。あれから本格的に、都市とか建築というものをもう一度考え直さなければいけないということを考えはじめました。

もう1つは時間の問題。今日は10年というdecadeで、総文の過去10年、これから10年を考えようということですけれども、東日本大震災の時にいわれたのは、「この種の大規模な震災は1000年に1回しか来ない」という風な話でしたね。平安時代前期の869年に貞観地震というのが起きてやはり大きな津波が来た。それから1000年後に東日本大震災が襲ったというわけです。でも1000年というスパンについて建築からの想像力はほとんど及ばなかったわけです。
 私はもともと建築史をやっていて、都市史という分野に転身しました。團先生は設計、黒石先生も設計からスタートして生活とか人間が中心になっていますが、建築というのはやはり作ったらそこでお終いという感じのところがあって、100年後とか、1000年後とかはあまり考えない。ようやく最近になって100年後はどうなのかということを言い始めましたが、もともとそういう感覚があまりないんですね。ただ歴史をやっていると、長い時間で建築や都市が変わりますので、時間の問題と、それから都市と建築という枠組みの問題、そして文化構造という問題、この3つで見ていかなければならないと考えるようになりました。それまで私は日本しかやっていなかったんですけど、世界も含めて見ていくなかで、1000年という時間のスパンにも想像力が少しは及ぶようになってきました。ちょうどフェルナン・ブローデルの言う長期の持続時間ですね。そして最近では「島」ということも考えています。

100年、1000年のスパンで都市を考えていくことも重要です 100年、1000年のスパンで都市を考えていくことも重要です
小林

都市ではなくて島?

伊藤

はい。都市でなく島。あるいはもう少し抽象的に表現すると「領域」ですね。テリトリー。これを青学で展開していきたい。
ヒントは法政大学名誉教授の陣内秀信さんがご専門のイタリアから来ているんですけど、イタリア語では領域を「テリトーリオ」と言います。イタリアは70年代ぐらいから農村が荒れてきたので、そこを守るためにテリトーリオという言葉で、田園計画を作った。この場合のテリトーリオは行政区分ではなく、土地のつながりから見ていくんですね。

小林

團さんの発表でもいくつものテリトリーという話が出てきましたね、あのときは境界が問題になっていましたが、イタリアの場合は境界とテリトリーはどうなっているんですか?

伊藤

境界は定義ごとに変わります。行政界はここだけれど、例えば土地の地質的にはここがつながっているとか、ブドウ畑はここまでだとか。だから彼らはテリトーリオという領域とパエザージオ(風景)とをセットで考えますね。つまり土地の拡がり方を、領域と目に見える形の風景という2つのセットで考えて、都市と田園を区別しないで計画しようと70年代ぐらいから進めているのです。
 それが1つのヒントで、震災のときにそれがビビっと来て、これからは領域ということで捉えていこうと。
考えてみれば、青山は港区と渋谷区の境界にあるでしょう。渋谷側に向かえば谷底に行くけど、あそこが1つの境界領域になっています。境界領域に都市ができるというのは日本の都市の定番なんですね。例えば大阪に堺という中世の港町があります。「堺」と書くけれど境界の「境」という意味もある。あそこは摂津の国と和泉の国という2つの国の国境地帯にできた都市なんですね。同じように青山も境界領域の都市なんです。

小林

それって、総文は都市であるというところにもつながりますね。

■いま求められるクリエイティビティとは

小林

本日みなさんの発表を通じて、渋谷とか表参道といった目に見える空間だけじゃなくて、目に見えない過去とか時間とか、いろんなものがパッチワークになっていて一部がちょっとめくれて見えている。そこに建築家がどうやって過去の傷の上に新しいものを建てるかとか、どのようにそれを直さなきゃいけないかとか、ただ単に自分のクリエーションをやるということではなくて、むしろすでにあるものを引き受けて、それを調整したり理解したりしながら、クリエーションしなくちゃいけない。クリエイティビティといっても、何かもう一つ引き受けなくちゃいけないものもあるという責任感みたいなものに、3人の先生の発表は貫かれていたと思います。

伊藤

本当にそうですね。

小林

そこに何か新しい文化政策のあり方が見えてくるんじゃないかなという気がしました。ここから先は今の伊藤先生のコメントを受けてご発言をお願いします。

鳥越

今の最後の話題の「クリエイティビティとは何か」という話に関連して。先ほどは時間がなくてお話できなかったんですが、豊後竹田の瀧廉太郎記念館の庭づくりは、廉太郎少年がかつて聴いていた音の風景を追体験できるようにという目的で行ったんです。
といっても、瀧家が住んできた頃の庭は、形やサイズも違うので、そういう意味では全然違うものを作らなければならなかった。つまり、滝廉太郎が少年のころ聴いていた音を復元する際、これまでの復元や修復とは違う、新たなクリエイティビティが必要だった。近代西洋的なクリエーションだと、ゼロから新しいものを創出することになりますが、それとはまた違うクリエイティビティが求められたんですね。
例えば東日本大震災といった状況で、何らかの観点からもう一度本当の意味での生活のざわめきが聞こえてくるような場をつくるためには、いったい何が求められるのか。まさに小林先生がおっしゃったような、これまでとはまた違ったクリエーションが必要になるのかなと思います。

ゼロから新しいものを創出する西洋近代とは異なるクリエーションが求められています ゼロから新しいものを創出する西洋近代とは異なるクリエーションが求められています

■都市の流動性と相互治癒の伝統

先ほど都市の定義という話が出ました。20年前に佐渡島の小木町で話を聞いたことがあるのですが、小木の若い人はほとんどが都市に行ってしまう。3人のうち1人は東京で、もう一人は新潟市、そしてもう1人が佐渡島内に移動するということなんですけど、佐渡のどこに移るかというと佐和田という町だっていうんです。小木と佐和田と通りを見ても違いはない。いったいどこが違うかというと、佐和田では彼女と手を繋いで歩いていても、翌日噂にならないということなんだと。それ以外の佐渡島内の町はみんなもう、ウワーッてなっちゃう。それも都市の一つの定義かなと。
都市になぜ人が集まるのか、どんな本を読んでも、情報があるからとか、仕事が多いからと出てくるのですが、根源的な部分から考える必要があるかもしれません。

根源的な部分から、なぜ都市に人が集まるかを考える必要があるかもしれません 根源的な部分から、なぜ都市に人が集まるかを考える必要があるかもしれません
伊藤

手を繋いでもばれないと。匿名性の話かな。

黒石

匿名性というのも確かにそうなのですけど、ちょっと別の視点からのお話を紹介させていただきますね。
私は地方の都市で活動することも多いのですが、以前大工さんのことを調べたことがあります。大工さんの多くはもともと農家の方で、季節労働者です。農業が忙しくなくなると旅をして、大きなプロジェクトのあるところに行って稼いで帰ってくる。たまたまそのプロジェクトが長くなってしまうとそこで結婚して、子ができたり、行ったり来たりをしながらも増えていく。
江戸時代の移動はすごく難しかったとはいえ、やはり移動している人はかなり多くて、農業人口は昭和初期まで7~8割いたので定着人数は基本的には多いのですが、旅する人は両方を兼ねていて、移動して技術が伝わっていくんです。そこで、移動する人の視点から考えていくと、都市も決してそこに定着しないでまた流れていく可能性が高い場所だったと言えます。流れていかずに常に残っているというのはむしろ、地域の農業とか漁業の基幹作業を支えている人たちなんです。でもその内部でも、常に動いているという感じを私は持っています。

東日本大震災の直後に、被災地が危ないから入れないと言っていたとき、親類がいる人は入れたんです。ああいう沿岸地域は、遠くの所と姻戚関係を結んでいる人がたくさんいて、そういう人たちがバーッて押し寄せた。どんな場所であっても、日本の健全なコミュニティには伝統的に、怪我をしたりするとそれを治癒しよう、助けようとする動きがあって、あちこちからみんな助けに入った。あの時に「あ、みんなが動き回ってつながってるんだな」という感覚を私は持ちましたね。
だから都市の流動性とか匿名性という話はあるんですが、そういう側面や地方の閉塞性との対比だけでなく、近代的な都市と地方の区分以前の人の流動性のようなもの、何かがあったらどんな場所も治癒をする、キュアをするためにバーッとみんなが集まってくる。社会の相互治癒ということが、次のステップを踏むために絶対に必要だと思います。

社会の相互治癒が重要になってきます 社会の相互治癒が重要になってきます

■都市という島

伊藤

今の黒石さんの話は、移動と、それから定着ですね。おそらく日本って、本当に古くから移動していたし、いろんな人が定着もしていったと思うんですけれど、都市のスタートは、宿場ができるかどうかですかね。

鳥越

原宿も宿でしたね。

伊藤

新宿もそうです。だから、私は都市の1つの条件としては、移動する人が泊まれる場所があるかどうか。つまり、取り付く島があるか。
それで渋谷というのは谷なんだけど、私は沼みたいなイメージがあって、沼地でその周りに代官山とか、南平台とか円山がある。青山は人の名前ですけど。
山と呼んでますけど、島ですね。島というのは伸縮自在で結構渚のラインが変わりますので、完全な輪郭線が引けないんですよね。そんな島の入会地みたいなところに賑わいができているという風に読むことができるんじゃないか。
それと今、思い出したんですけど、カッチャーリの「群島論」がヒントになるんじゃないか。マッシモ・カッチャーリというのはベネチア市長もやっていたし、ベネチア建築大学の先生もやっていた哲学者兼政治家なんですが、彼に『アーキベラゴ(群島)』という本があります。ヨーロッパがEUみたいに1つのまとまった状態になったことを批判する書です。ベネチアというのは分散した島ですが、ある場合には連携し、いろんな関係を結びながら散らばっている。そのように、いくつもの都市や地方がしなやかに連携するモデル、群島的な国家のあり方が必要だということを提唱した人です

日本も島国ですが、都市もいくつかの島と考えてみると、海があって、沼があって、そういうところを調整しながら発達していく。青山を1つの島と考えれば、渋谷の方に降りていけば沼に行きますし、それからちょっと超えれば港区もあります。

鳥越

今の話だと、本当に円山町も、その後ろに“奥渋”といわれる神山町がある。さらに代官山もあって、全体としてどこまでが渋谷なんだろうと思いますが、ある意味すごく島的な構図ですね。島的なものがいっぱい少しずつ重なって、渋谷を形成している。

伊藤

だから渋谷が1つの領域と考えれば、いくつかの島があって、そこに海があって。

小林

そういう意味で面白いなと思ったのは、團さんが喋ってくれた穴のイメージ。谷の底にいっぱい巣穴が通っていて、それを沼地と言ってもいいけど、下にへこんだ島地、つまり反転系で、ある意味アトラクター的な構造をしている谷に、穴がいっぱいあって、この穴を本日発表してくれた3人の先生は、穴に耳を傾けていたり、穴を通してそこが汚れているかどうかを見てみたり、穴を通した向こう側の空襲を思っていたりしていた。島でもいいんですけど、僕自身は、いっぱい穴が空いている谷底っていうイメージを思い浮かべました。

■空間の良し悪しと都市のクリエイティビティ

小林

話はいくらでも拡がっていってそれは楽しいことなんですが、時間もありますし、会場にもその拡がりをということで、ご意見や質問をお願いします。

間宮

特任教授の間宮陽介です。空間を考えるとき、良い空間、悪い空間というものがあると思います。その良し悪しと都市のクリエイティビティとはどういった関係にあるのでしょう。
渋谷は創造的になったといわれますが、夜はもう歌舞伎町みたいに警官が出て交通整理なんかしている。これなら50年前の学生の頃の渋谷の方がずっといいと思ったほどで、クリエイティビティと良し悪しとは必ずしも一致しないのではないか。またビルバオのグッゲンハイム美術館のデザインは立派ですが、周りは閑散としていて、むしろ旧市街のほうがいろんな店があって楽しい。
このように都市を考える場合には、良し悪しも考える必要があるのではないかと思いますが、本日の話はそのあたりがちょっと希薄だったように感じました。いかがでしょうか?

私は設計する立場ですから、人がいて初めて「いい空間だ」と感じるような客観的な場面、そういう幸福な場面にはそれほど遭遇しないんです。でも人がいない段階で「すごくいいものができた」というのは、逆に一歩間違えると、「人が入ってきてもらっちゃ困る」みたいな、写真を撮るのに「ちょっと出てください」みたいなところがあるので、少し空腹感を覚えるような出来栄えじゃないと多分駄目だと思うんです。
そして、使っていただいているのを傍から見て「これは設計で完結しないでよかったな」と思ったり。でもそれもいろいろで、敢えて完結してなかったのか、そこまで悟りを開いている設計者じゃないのでたまたまそういう風になったのか。だから良し悪しといっても設計の立場や使用する立場、管理する立場などによって違ってくると思います。

黒石

誰にとっての、どういう基準での良し悪しかということが常につきまといます。例えば今の都市の修景とか、景観保護とか、そういうものの基準というのも、心理学をはじめさまざまな角度から研究が行われていますし、行政もいろいろ事例分析や観光事業における経済効果、犯罪との関連性などを調べています。
そういう事象的なことだけでなく建築美学の面でも、建築空間としての総合性という概念から、人を超越したようなものや暗い穴ぐらの中を覗き込むような自然の神秘性、人の感覚とはちょっと違う恐怖だとか、そういうものが追求された時代もあって、そういったサブライムなものがない都市は良くないといった議論も過去のヨーロッパにありました。
ですから、間宮先生がおっしゃっている良し悪しということ自体が、歴史性とか、場所それぞれの文化的な背景や、社会的な要因、それから誰がそれを語っているかという立場によってもかなり多様性があるのではないかと思います。
そして我々がここで議論していることは、我々の次の世代の人たちが、どういう立場になるにせよ、これらの多様な視点を受け止めてしっかりと自分なりの価値観を持てるようになるにはどうしたらいいのかということだと私は解釈しています。

小林

今日発表された3人の先生は、1つ1つの現場が持っている、複雑な過去や記憶といったものと、自分がどういう風に対話しながら、あるいはずらしたり、境界を少し変えたりしながら都市を作っていくか、そこを考えなくてはいけない。それを自分の学生を巻き込んで実践的に進めているというお話でした。
そこにこそ、今失われている我々の、人間というものが持っている極めて根源的な何か、世界のあり方が出てくる。だからそれをもう1回きちんと受け止めることなしに、未来につながるクリエイティビティは存在しない。そういったことを、それぞれの方々が自分の現場で提案していたという風に私は理解しました。
本日は、どうもありがとうございました。

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