第1回トークセッション
■谷底にある渋谷駅
1950年代に世界の人口は25億人だったのが、今は75億人です。当時は3人に1人が都市居住者だったと言われていますが、現在は3人に2人が都市に集中している。つまり、この70年間で都市人口は6倍に増えたわけで、それは人類がほとんど経験したことがないことです。しかも青山学院大学は3800万人の世界最大の都市圏と言われている東京圏の中心にあります。これまでの建築学科とか、都市工学科というのは、都市というものをデザインや計画の対象としてしか見てこなかったわけですが、それでは狭い。そこで、「都市学」というテーマを掲げて、日常的な都市生活と都市空間の実感から出発して、目の前にある街を歩き、調べ、考えることがすごく重要ではないかと取り組んでいます。
2016年より総文・教授。1956年生まれ。東京大学大学院建築学科/イェール大学建築学部大学院卒。1984年團紀彦建築設計事務所を設立し今日に至る。設計作品として、台北桃園国際空港第1ターミナル、表参道Hugo Boss、日本橋コレド室町、日月潭風景権利処、2005年愛知万博日本政府原案など。著書に『東京論』(ガーデンシティーブックス)、『都市を看る』、「るにんせん」など。
この図は青山通りと、表参道、明治通りの3本の通りに囲まれた三角地帯を示していてちょうど50haあります(図1)。学生たちとその中を歩き、フィールド調査をしています。学生たちが言うには、「意外だった」と。表の通りからは商業地だと思っていたけれど、中に入ると住宅地だったのだと知らなかった学生も多かったようです。しかも電柱が乱立していて、狭い路地で…といった意見が出てきます。
葛飾北斎の「富嶽三十六景」の一枚に「隠田の水車」という浮世絵があります(図2)。穏田は今のキャットストリートや渋谷区神宮前のあたり。かつてはこの絵のようにのどかな田園風景や渋谷川の風景が広がっていました。その渋谷川に蓋をして、キャットストリートができたわけです。でも、江戸からの大小の区画の大きさは、意外なことに時代を経てもあまり変わっていないことが、地図を重ね合わせていくうちに見えてくるんですね。
地形的にみると、渋谷駅は谷底にある駅で非常に珍しい。本来駅を作る場所ではなかったのかもしれません。普通電車というのは、新宿みたいに平らな地面の上を走っているんですが、渋谷駅のように谷になっていると、いろいろな方向から電車がやってくる。しかも谷底の地面の上を電車が一つも走っていない。そういう不思議な駅であったからこそスクランブル交差点ができて、海外の人たちは熱心に写真を撮っているけど、東京に住む我々は僕自身も含めほとんど日常的に慣れてしまった場所なのでかえってその珍しさがわからない。我々は都市を知るよりも、まず日常的に慣れなきゃいけない。そこが盲点なのです。でもそういう視点から離れて、「なぜか」ということを学生と一緒に考えています。
■都市を捉える視点
江戸の町人地の人口密度は1平方kmあたり空前の6万7000人で、ムンバイの3万人の倍です。だからスクランブル交差点の局部的人口密度の高さも今に始まったことではなく、日本橋の絵と比較すると江戸のころからずっとあったことではないか(図3)。この高人口密度が、日本の公共の場に質的な違いを与えているのではないかと思います。「空気を読む」などという社会心理はこうした社会環境の中で醸成されたものだと思います。
なんと世界の駅の乗降客数の上位23位までが日本で、うち16駅が東京にある。24番目がパリの北駅で、25番目が台北の駅ということから見てもそのことが言えます。
乗降客数2位の渋谷駅は。1つの駅というより、JRやメトロ、東急などの次々に作られた各線の6つの駅の集まりではないか。一つの駅ではなく6つの駅が行きがかり上、一箇所に集まっていると見た方がわかりやすい。
これは渋谷駅のイメージをパロディーとして描いてみた寓話図です(図4)。渋谷駅は6匹の動物が、それぞれ一生懸命、谷底のところに巣穴を作っている。利用者は、狐だとか、うさぎだとか、そういういろんな動物の巣穴を抜けていかなければならない。そしてスクランブル交差点のところが共有のコンコース。駅長も6人いるはずで、強力に一つの駅にすることができなかった駅だと推察します。
この2枚の写真は東京駅の新幹線乗車口と上海の新幹線ターミナルの比較です(図5)。東京の新幹線の駅は天井高3m以内なのに、上海は30mあって向こうが霞んで見えるほど大きい。日本だったら上海の駅は2階から上が全部デパートになっていたでしょう。
駅ビルは日本にしかない都市建築物です。日本では駅は単一機能建築物ではなく都市複合施設なのです。日本のデパートの第一世代は、江戸から続く呉服屋だった三越など、駅からちょっと離れています。ですが、第二世代は小田急、東急、西武といずれも私鉄の商業資本が築いたものですよね。いかに商業的なものがモチベーションになってこの濃密な鉄道網が敷設されてきたかということがわかります。
表参道の歩道の幅は植栽を含めて8mで青山通りは6mです。たった2mでこんなにイメージが違うわけです(図6)。青山通りの中央分離帯の3mを歩道にプラスしてもう少し広げれば、表参道並みの街路樹が育つようになると思うのですが。
また、街路樹の形を見るだけでも、そこがいかにいろいろな制約を受けているかがわかります。明治通りのプラタナスは、車に当たっちゃいけない、人に当たっちゃいけない、ビルに当たっちゃいけないということで、気の毒なことにもう奇っ怪な形に変形されています(図7)。
このように、ただ現状を調べるだけではなく、考えてみる。日常的に慣れすぎてしまうのも問題で少しは客観的に分析して計画性を伴った批評眼を養うことも大切です。これからは都市工学者や建築家だけでなくそうした批評眼を持った新しい世代の人たちが都市をよくしていく担い手になってほしいと思っています。
■我々の都市のイメージはいつ成立したか
私の修士論文は東大建築学科の槇さんの研究室にいた時の「都市認識論」というものでした。多元的な都市を人はどのようなスコープで見るのだろうかという都市の認識をテーマにしたのです。この図(図8)などはその頃のものでパッチワーク状の都市の境界で起こる分離・同化・調停の構図をあらわしています。
次の左側の都市の写真は、はっきりした中心と外形輪郭とを持っているパルマノーヴァでその周りに外界としての自然が広がっている都市。都市と自然があたかも対立していますね。右側は18世紀の蘇州の絵です。水、人、建築それから船や植物が等価に描かれていて中心がないアジア的な共生的な都市空間。自然との境界線も曖昧です(図9)。
東アジアには西洋と違って都市と自然が対立するという概念があったのかどうかは大変疑わしい、と僕は思っています。都市という言葉すら明治維新以降のもので少なくとも江戸時代には使われていなかったからです。都市という言葉の中にはすでに西洋の都市観が染み込んでしまっていたのです。明治維新の時にいろいろ新しい言葉が作り出されましたが、都市というイメージがいつ頃から今のようなものになったのかということとも密接な関係があると思います。
自然観もまた地域的なものです。例えばトルファンに行くと、都市の中心部にしか緑はなく、郊外に行ったらもう一木一草ない。緑という我々が自然のシンボルのように思っている自然観や都市観というものも東アジアの豊かな自然環境でしか成立しない相対的なものなのです。砂漠地帯のトルファンでは都市のシンボルは緑なのです(図10)。
■建築家・槇文彦
東大で槇先生の教室にいた時に、「代官山ヒルサイドテラスというのはどういう風に設計したんですか?」と先生に聞いたところ、「ジャズのアドリブみたいにやったんだ」と言われました。連歌のように。ある人が上の句を読んだら、この人が下の句というような発想。つまり集落というものは生き物のように生成変化していきますが、槇さんはそれに恐山のイタコのように乗り移って、それで代官山の計画をやったんだなと。そこで自分も絵を描いてみようということで、タワーというテーマで、描き始める時に最後どうなるかをアプリオリに考えないようにして、サイコロジカルな実験として描いたのがこのスケッチです(図11)。槇さんからはあまり評価されませんでしたが。
あるとき後輩の建築家の青木淳から、「槇先生に團さんのこの絵がスパイラル(図12)のデザインに影響を与えたのかって聞いたら、そうだよって言っていたよ」と聞きました。僕自身は槇さんに対しては怖くてそんなこと考えもしなかったし、むしろこの絵は代官山の話からインスピレーションを得て描いたものでしたので。
槇先生が東大に来てから都市へのまなざしが多元的なものに変わり、そこから物事を発想するようになりました。多元的で生成変化する都市。このモデルは自然環境にも適応できるものだと後で私も気づいたのですが、これが槇さんと黒川さんのメタボリズムと。黒川さんの共生の思想につながる世界観だったと思います。お二人はまったく違うタイプの建築家に当時から見えたのですが。
メタボリズムの代表図14 中銀ビル/黒川紀章的な建築家として名前が挙がるのが槇さんと黒川紀章さんです。槇さんの代表作が代官山ヒルサイドテラス(図13)で、黒川さんが中銀ビル(図14)。「なぜこの二人がメタボリストと呼ばれているのか、何も共通点がないじゃないか」とよく言われますが、戦後の復興期から高度成長期にかけて猛烈な生命力を持って生成変化していた有機体としての都市東京に対するメッセージを、槇さんと黒川さんは別々の角度から、それぞれの感性で二つの建築作品を通して示したと僕は理解しています。それが西洋のコルビュジェやバウハウス型の左翼的都市計画理念に対して衝撃を与えたのです。東京からの視点という点がこれまで見落とされていたことだと思います。ただただ西洋のウケを狙うようになったその後の日本人建築家達とはそこが違うのです。
■共生の追求
これは共生という概念を自分なりに解釈して描いた認識モデルです(図15)。いろんなテリトリーのパッチワークから成り立っていて、一つ一つのテリトリーの中にはそれぞれのテリトリーの中のオーダーというか、ロジックがあり、境界線の上にも別のロジックがある。個々のパッチワーク内の秩序と境界線の秩序の二つのロジックがあって初めて共生ということが語れるんじゃないかと、僕はそういう風に解釈しています。
政治的な話はあまりしたくはありませんが、今、市長とか、県知事とか、国家元首があまり魅力的に見えない理由は、一つのテリトリーの中のことだけを考えているボスだからじゃないか。全体として、隣の国がもっと良くなったらいいとか、そういう普遍性を持った広い発想があまり聞こえてこないわけですね。しかし街の建築をやっている我々は、街の中の共生のモデルをきちんと考えていきたいと思っているわけです。
実際の建築を例にお話ししましょう。
共生を考える際には、境界線というものが重要な問題となってきます。都市には街路と家、家と家の境におびただしい数の境界線があります。知覧の麓集落の例(図16)などでは家のプライバシーを守るために外の道との間に塀を立てざるを得ないけれど、そのとき、家の中から楽しめるように遠くの山にあわせるようにカーブした生垣を作る、すると第三者がそこの路地を歩いているときに生垣がカーブして見えるというようになっています。中の人にとっても、第三者にとっても良い結果が生まれるケースもあるわけです。
一方ガザ地区の塀(図17)はパレスチナ人とユダヤ人の関係を遮断する戦争のシンボルとなっています。
手前味噌になりますが、私が設計したHOLONビルという建物が北青山にあります(図18,19,20)。あるディベロッパーが一つの土地を買って、大きすぎたために短冊型に二つに割って売ることにしたのです。そして同じようなものを右と左に建ててくれと。ですから一つの計画の中に、真ん中にもう一つの敷地境界線があるんですね。普通、敷地境界線というと、材木だけが置いてあって人が通れなかったり、猫だけが移動したり。でもそれではもったいない。境界を共有すればもっと中を広く使えるんですから。
そこで、境界線の上に公共のパッサージュを設けて、後ろの中庭を共有にすることにしました。別々の所有地なので建物をつなげることはしませんでしたが、本来は私的な庭にすることもできた場所を公的な空間として開放したのです。境界線では、敷地境界線紛争とか、いろいろ相反するものの個性がぶつかり合ってコンフリクトを起こしがちです。そこが1+1が3になるような、マイナスのコンフリクトのエネルギーをもとにして都市空間を豊かにする発想やクリエイティビティを出していくことが、共生の思想なのではないかと考えています。
これは建築家の仙田満さんと協同して設計した西京極総合運動公園プール施設です(図21)。「ユニヴァーサル・フォーム」と僕は勝手に命名しているんですが、その発想のスタートが、半分が建築で半分が地形というものを作ろうということだった。いわば、「大地との共生」です。ここではプールを作るために地下に大規模な機械室を作る必要がありました。このために9万立方メートルもの土を建設時に場外に廃棄する必要が生じてきました。これはどこかあずかり知らない港湾の埋め立てなどに使われて環境破壊の片棒を担ぐことにつながりますし、周囲にダンプ数千台の粉塵を撒き散らすことにもなります。そこでこの土を計画に活かすことを考えたのです。
建築物の総延べ床面積は3万平方メートル。平均階高を6メートルとすれば3×6=18万立方メートルの塊になります。9万立方メートルの土をカレーのルーに見立て、18万立方メートルの建築ヴォリュームを具に見立てれば9万+18万=27万立方メートルのカレーができます。この概念上の流動的なミディアムを敷地に流し込んで周囲の文脈と対応させつつ煮こごり化していったのです。形態は機能に従うのではなく形態と機能は共生するという構図です(図22)。
このペーストの原点となったのが、ヨーロッパの都市の分析によく使われるノリの図(図23)と、当時日本のあちこちであった自然破壊の様子でした(図24)。前者はスイスチーズのような柔らかい固まりから中庭の穴を開ける西洋の街の手法。後者も土を削る行為。その二つが結びついて、建築とランドスケープが一体化したユニヴァーサル・フォームを構想したんです。
なぜそんなマイナスのところからのアイデアなんだと思われるかもしれませんが、そのように自分の中ではこの二つのイメージが自然に結びついたのです。土を削る行為は医療にたとえると人間の筋肉や血管を切る血だらけの状況となりますが、切れてしまった大地をつなぎ戻したり水脈をつなげたりする行為もまたこうした痛ましい自然破壊の中からヒントが得られるものです。自然と建築や建築同士の分断が激しく起こっている日本だからこそ、それを構想したのだと思います。金属にとってのハンダのように半建築半地形のミディアムが必要だと感じました。
その延長として設計したのが、日月潭風景管理処という台湾の計画でした(図25,26,27)。次は表参道Keyakiビルです(図28,29,30)。HUGO BOSSのビルになっている建物ですが、隣が伊東豊雄さんのTOD’S表参道ビル。表参道ってケヤキ並木で救われているけれど、ブランドショップの連続で、隣との関係はバラバラな通りなのです。でも隣とのエスプリのあるつながりがあっていいんじゃないかなと。伊東さんの建物はL字型の外観の内側が綺麗にデザインされていたので、我々もトーチ状の中層部をちょっと絞って内側が見えるようにした。また両方とも木をテーマにしています。ここでは融合したり同化したりせずに「他者との共生」を図ったものだと考えています。連歌のようなものです。
日本橋のCOREDO室町はさまざまな歴史的ルーツを持つ建築がごちゃまぜになっていたエリアでした。室町地区の中央通りの西側は三井本館や日銀本店など欧化政策を体現したような大区画に建つ西洋新古典主義建築が、通りの東側は築地に移転する前の江戸の魚河岸があったところで、区画も小さく屋上を転々と移動してきた福徳神社がありました。ここは江戸の魚河岸の空気がまだ残っていた場所です。西側は明治、東側は江戸の風情が文脈としてありました。
さまざまな歴史的ルーツを持つ建物が混在している様は江戸東京の縮図でもあります。ここでは三つの街区の建て替えだったので、それぞれの幅の違う街路の歴史的文脈を再生するように計画しました(図31,32)。一個の建物は一つの個性というドグマをやめて、一つの街路は一つのアイデンティティーとする発想に変えたのです。高層棟は街並みを作れないとよく言いますが、ここでは三層構成にして低層部で街路の連続性をつけています(図33)。日本の新古典主義のような建物なので正統なモダニストの槇先生はきっと嫌いだろうけれども、街路を再生させるために街区の一つの建築に四つのファサードを共生させたのは、部分の自律性を重視しておられた先生からの影響です。
台北の空港は1979年に建てられた旧第1ターミナルの改修計画でした(図34,35)。どこの国でも「第1ターミナル」というのは発展途上の時に建てられるからすぐオーバーキャパシティーに陥る傾向があります。ここでも当初は年間500万人で計画されましたが、10年足らずで1000万人を超える利用客数となりました。2007年頃国際コンペがあり、その時提示された総工費予算がとても低かったので我々は改修の道を行くことにしました。
大きなウィングを両翼にかけることで使われていなかった外部テラスを内側に取り込み、床を一つも作らずに年間1500万人の利用を可能にしました(図36,37)。このためコストもターミナルを新築した場合と比べて20分の1にできたので、地球資源の無駄遣いをせずに済んだと思います(図38)。
改修というのは、時には新築よりも面白いジャンルです。過去の建物をみんなが知っているので、かえって驚きを持って迎えられる可能性もあります。外科手術のようなもので、古い骨を治しながら新しいものを合体させていく。途中で見つかった患部もついでに治したかったのでその予算獲得には苦労しましたが。見えないところも直したので、2016年の集中豪雨の時には第2ターミナルなどの他の新しいターミナルは1階のホールが水没しましたが、この第一ターミナルだけは無傷でした。
話を戻すと、改修計画は昔の記憶を大切にしている方がいるので旧ターミナルの面影は残すことにしました。過去からの無数の糸の中から未来につなげる糸を選りすぐって結び目をつけるような作業でした。この意味からこの計画は、過去と未来をつなげる時間との共生がテーマになっていたと言えます。
團さんの建築の概念の行き着いた先の一つが、ユニヴァーサル・フォームということなんですか?そのユニヴァーサル・フォームというのは何?よくわからなかった。
20世紀の近代建築を代表するミース・ファン・デル・ローエの「ユニヴァーサル・スペース」をもじったものです。ユニヴァーサル・スペースは、すべてに普遍的に行き渡る、その中でいろいろな多様な人間の行為が可能な空間としてミースが提唱したものなんですが、ここではいかなる地形や過去の環境ともつなぎの役割を果たすペーストという意味で使っています。
「ユニヴァーサル」というのがじつは逆なんじゃないかなという感覚を持ったんです。つまり、ユニヴァーサルなフォームを押し付けるのではなくて、その場、その場で具体的な、穴のような血みどろの地形と対話しながら作っていくことが重要なのでは? その意味ではユニヴァーサルというとミスリーディングで、むしろアンチ・ユニヴァーサル。
ああそうか。とにかくハンダのペーストみたいなものがない限り、削られたところを再補填することはできないし、ズタズタになった古い町並みの間を修復する、そういうものが必要だなと。
だからそのたびごとに、それぞれのズタズタの状態を見極めながら、その間の境界、例えば時間と時間の境界だったり、空間と空間の境界をどうやって立ち上げるかを考えていかなければならない。ユニヴァーサルな一般論があるのではなく、そのつど、まさにDifférenceというか、フランス哲学的に言えば「差異」なわけでしょう?
ユニヴァーサル・フォームという言葉を使いましたが、逆の意味になってしまうようですね。言葉の使い方から間違っているのかなと思います。「共生媒体(symbiotic medium)」と言った方が良いかもしれませんね。
続いて、空間下でどういう出来事が起こるのかということで、サウンドスケープをこの渋谷、表参道で実践している鳥越先生にご登壇いただきます。よろしくお願いします。