イベント EVENTS REPORTS プレイベント|2018年2月26日 杉浦勢之教授による特別レクチャー 総文創設のいきさつと学部の由来を語る

プレイベント | 2018年2月26日

杉浦勢之教授による特別レクチャー総文創設のいきさつと学部の由来を語る

杉浦 勢之
教育改革の中のプレヒストリー

総合文化政策学部・研究科設立10周年ということで、少し話すようにということでしたので、もうそんなに時間が過ぎたのかという印象です。思い起こせば、その間にリーマン恐慌があり、3・11がありました。後ほど申し述べますように、日本にとっても、世界にとっても怒涛の時代だったと思います。その中で総文が産声を上げ、まがりなりにも10年という時間を刻んだということで、当初より計画に関わったものということで、お話しさせていただきたいと思うのですが、これもまたどこかの時点で、もう一度検証いただき、正式の歴史としていく必要があると思っておりますので、その一通過点ということでご理解いただければということで始めさせていただきます。

杉浦 勢之

杉浦 勢之Seishi Sugiura

青山学院大学経済学部卒業、名古屋大学大学院経済学研究科博士課程任期修了退学。青山学院大学経済学部教授を経て、総合文化政策学部設立と同時に移籍。青山学院大学副学長、総合文化政策学部長を歴任。ACL所長。日本経済史(共同体論・現代財政金融史)を専門とするが、現在はICTを通じた人類史の変革の研究に転進中。共著書『人企業システムの戦後史』(東京大学出版会)、『金融危機と革新』(日本経済評論社)、『東京証券取引所50年史』(東京証券取引所)、『青山文化研究』(宣伝会議)ほか。

設立10周年ということですが、その計画段階まで考えると、総文の起点はさらにその10年前に翻ります。最初から考えると20年ということになります。当時私は経済学部に在籍し、学部の役職としてたまたま第二部にかかわっていました。青学の第二部というのは、とても面白い教育課程でした。青学では唯一4年一貫都心部キャンパスで、異年齢教育を実践していて、学力とか偏差値とかそういうことで切分けられていない、おそらく他ではきっと出会うことなかったであろう個性やキャリアの違う人同士の出会いが生まれる不思議な〈場〉で、キリスト教信仰にもとづく教育という戦前からの青山学院の伝統が色濃く残っていました。当時「工業(場)等制限法」というのがありまして、大都市都心に所在する校地と学生定員数について強い縛りがありました。第一部の学部教育課程の前半は厚木に置かれており、就職活動もどんどん前倒しされていくという時期でしたので、青山キャンパスというのは、昼に学生が僅かしかいない、ひっそりしていて、夕方から俄かに活気づくという、これまたとても不思議な雰囲気があり、学部の横割り教育の弊害が明らかなうえ、青山キャンパスの昼間の活気のなさに、その立地環境を考え、これはちょっとどうにかしなければならないなという印象を持っておりました。

これと並行して、少子化ということは当然頭に入っておりましたので、その流れの中で、第二部の変化をかなりモニタリングしておりました。この影響が本学に現れるとしたら、まず第二部に最初に現れるだろうとの予測はありました。これが20年前の、ある年の入試からいくつかの徴候として出てきた。数値データとヒアリングで、第二部がピークアウトしたなとの実感を持ちました。それはかすかな予兆に過ぎませんでしたが、もともと金融を専門としていましたので、護送船団方式で守られてきた業種が追い込まれるとどのようになるかを間近に見ています。長期趨勢がはっきりしているのに、ぎりぎりまで待ちの姿勢で問題を先送りすることがどれほど危険であるかはわかっておりました。追い込められてからでは手の打ちようがなくなります。まだ余力のある間に次を考え、手を打っていかなければならない、第二部に衰退の予兆が少しでも出たら、そのいちばん良い時期を知る現場からその廃止を提案すべきだろうと、そのことははっきり決めておりました。ただ第二部に見たあの不思議な教育の空間や時間は、日本の教育で得難いものでしたので、その可能性は「青学の教育」として継承していきたいという気持ちもございまして、これは大学院に移していったらよいのではないか、経営上必要となる受け皿としては、全く新しい、21世紀に求められる青学らしい学部を新設しようということを考えておりました。言うまでもなく、大学院の文化創造マネジメントは、そういった流れの中で前者の観点から構想されていったということになります。そういう意味で第二部の「発展的解消」という言葉をひねり出しました。

ところで、当時「工業(場)等制限法」が撤廃の方向性にあるとの見通しはありましたが、その撤廃のスケジュールははっきりしていませんでした。しかしそれを待っている間に、校地によって二分されてしまっている青学の学部専門教育がどんどんボディーブローを受けていくであろうことは明らかでした。「規制」が校地所在地という空間的条件に対するものであって、昼夜の時間の違いを含んでいませんでしたので、これは第二部の学生定員枠を第一部の学生定員枠に移すということでクリアできます。そこで新学部で4年一貫同一キャンパスのパイロット・プランを立ち上げ、それを口火に規制緩和に合わせて全教育課程同一キャンパスを実現したいということで、シミュレーションを何度も行い、経営的に成り立つ学生定員数や教員数を固めていきました。こうしていろいろの制約条件をクリアできることがだいたいはっきりしてきて、スキームは概ねできたのですが、それではその中身はどうするということになります。そこからが大変でした。スキームができあがったまさにその時に、3キャンパスあった青学の校地を2キャンパスに集約するというキャンパス政策の大転換が決定し、基礎的条件が変化する。さらには青山キャンパスにどのような学部を作るかで大変議論が沸騰することになったわけです。

2008年 当時の相模原キャンパス

その過程というのはここでは省略しますが、これまで述べてきたことから明らかなように、青山学院の教育を継承しつつ、青山キャンパスで4年間同一キャンパスを先行して実現する学部ということでしたので、公共ということを大事にする(これは今でも学部科目に反映されていますが)学部として公共社会を対象とし、都心立地の学部としての社会的責任を考えて公共文化を対象とする学部という塑像を東方先生などと構想していったのですが、とにかくなかなかお認めいただけず、最終的に「文化創造」を課題とする総合文化政策学部としてお認めいただくということで、武藤元昭学長の時に、新学部要員として学長補佐-副学長を拝命しましたので、学長のイニシャティヴで何とか全学―理事会でお認めいただけるところに漕ぎつけました。この間に都心型キャンパスの先行事例として、特に研究させていただいたのは、これは初めて申し上げますが、NY所在のニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチとニューヨーク大学でした。ああいう教育実践、研究実践はアメリカでしかできないなあというところがありましたが、とにかく青山という〈場〉でその一部でもやりたいということで構想されたのが、青山コミュニティ・ラボ=ACLでした。

青山学院大学では国際政治経済学部の後に構想された新学部であったということで、その経験から多くを学んだことは確かですが、コンセプトはアメリカの都心部大学に最も学んでいます。日本でも国立大学では教養部改革などもあり、新しい学際学部が多数生まれましたし、東大駒場と芸大についてはリサーチさせていただきました。が、総文はもともとそういう学際型の成り立ちではありません。ほぼまっさらなところからの出発なんです。また社会情報学部が同時新設され、2学部とも名前が似ているというので、学生からもよくSFCと親近のように思われるのですが、2学部とも名前が似たのは偶々です。もともと新学部ブームの源流は国際政治経済学部だったわけで、そこから総合系の学部と国際系の学部がいろいろ私学で生まれていくことになったのですが、我々はその流れの中にはなかったですね。コンセプトやグランド・デザインで最も研究させてもらったのは、アメリカの都心部大学なんです。都市を起点とした文化創造、それが初めからの我々のミッションでした。総合というのはその後からやってきたということです。

思えば10年、大学執行部3代を通じたプロジェクトだったわけですが、今から考えるとあれだけ議論を重ねたということが、実は総文の強みになったのではないかと思います。追い込まれてからあたふたと作られた学部ではありません。批判を尽くされ、想いを仮託され、幾度も重ね書きされながら構想されていったということで、面白い仕組みをつくっていくことができたのではと思います。総合文化政策学部設立後、2012年(3.11で一年遅れました)に青学全学のキャンパス再配置も、図書館等施設面でまだ若干残すところがありますが、ほぼ完了いたしました。数えれば大学執行部5代をかけた懸案プロジェクトの口火として、21世紀の教育の新たな在り方を青学が提案するものとして、総文は出発したわけです。

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